ていた神尾主膳の口から出たものであります。神尾の面付《かおつき》の緊張しているのと、その発言の甲走っていることによって察すれば、何かこの男が緊急動議を提出するものらしい。
「神尾殿」
と言って議長ぶりの太田筑前守が主膳の名を呼び、その言わんとするところを言わせようと催促しました。
「ちとお聞きづらいことのようではござるが、言わんとして言わでやむは武士の本意でない、その上に、このことは甲府城を預かる我々一統の面目にもかかることと存ずる故、この席で両支配並びに列座のおのおの方の御所存を承りたい」
神尾の意気込みは烈しいのに、太田筑前守はそれをさのみ気には留めないようであります。駒井能登守は神尾の気色《けしき》のただならぬのと、それから武士の面目呼ばわりをすることが穏かでないのを、上席の筑前守が応対しないから自分で引受けて、
「我々一同の面目にかかるというのは一大事、何事かは存ぜねど、神尾殿の御腹蔵なき御意見が承りたい」
と言いました。
能登守からこう言われて主膳は、さもこそという面付《かおつき》で、膝の上にさいぜんから後生大事に保管していた焼け残りの提灯を取り上げました。
「近頃、この甲府城の内外は甚だ物騒なことでござる、城下の町々で辻斬がほしいままに行われるかと思えば、破牢の大罪人があって人心を騒がす、その辻斬の曲者《くせもの》も未だ行方が判然せず、破牢の重《おも》なる罪人は影も形もなし、これ我々を在って無きが如く致す者共の振舞。その以前、御金蔵の金子《きんす》が紛失致したとやら、その盗賊の詮議《せんぎ》も今以て埒《らち》が明かず。あれと言いこれと言い、不祥千万《ふしょうせんばん》。その上に、このごろは毎夜の通り、この天守台の上に提灯が現われる、心なき町民どもは天狗魔物の為す業《わざ》と申しおれど、これ以て人間の為せし悪戯《いたずら》、我々を愚弄するにも程のあったもの。余《よ》のことは扨置《さてお》き、まず天守台の提灯から御詮議あって然るべく存じ申す」
神尾主膳は、焼けた提灯を捻《ひね》くり廻しながらこう言いました。
神尾主膳のこの発言は無遠慮に聞えました。列座の誰をも不愉快に感じさせましたけれど、その言うことには筋道がありました。神尾がいま並べたようなことは、その一つがあっても、役人の重き越度《おちど》と言わなければなりません。神尾とてもその責めを分つべき勤番のうちの上席の方の身分でありながら、それをこの席へ持ち出すということは、あまりに無遠慮であると思いました。
太田筑前守がそれを抑《おさ》えないのも気の知れないことだと眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るものもありました。駒井能登守は主膳の無遠慮な発言を聞いて、やはり沈黙していました。
そうすると神尾主膳は、先程はやや甲走《かんばし》っていた声がようやく落着いて、提灯を枷《かせ》に使いながら、一人舞台のように主張をはじめてしまいました。
「まさしく何者かがあって、この提灯を夜な夜な天守の上へ掲げて我々を愚弄したものと相見える、奇怪千万のことと申さねばならぬ、この用捨し難き悪戯は、何者の手によって為されたかきっと訊《ただ》さねばならぬ。しかし、これと言うも末のこと、斯様《かよう》に我々を愚弄致すものがあるのは、つまり上《うえ》が悪い、上の風儀が乱れているが故に、下これを侮《あなど》る、まず以て上の士風から正さねば相成るまい、上に立つ者の風儀が乱れていては、いくらそれぞれの係の者が骨を折ったからとて所詮《しょせん》無益、一向に人のしめし[#「しめし」に傍点]にはならぬ、かえっていよいよ軽侮《けいぶ》を加えるのみじゃ、まず以て上流の風儀が肝腎《かんじん》」
と言って神尾主膳は、駒井能登守を尻目にかけるようにしました。これは、いよいよ無遠慮な言い分に相違ないことであります。
上流の士風というようなことを、別人ならぬ神尾主膳の口から聞くことは、淫婦の口から貞操が説かれ、折助の口から仁義が論ぜらるるようなものであるけれど、それにしても、この席で神尾の上流としては、太田筑前守と駒井能登守があるくらいのものであります。これらの上席をそこへ置いて、こんなことを言うのは、この上もなき礼を失した言語挙動であります。神尾とても、そのくらいの礼儀を弁《わきま》えない男ではなかろうけれど、それを満座の中でかく主張するからには、やはり例の通り、何かの魂胆があることと見なければならないのであります。
神尾の言い分も怪《け》しからんものであるけれど、それをまた抑えようとも咎《とが》めようともしない太田筑前守の座長ぶりもまた、気の知れないものであります。筑前守の態度は、神尾に言うだけのことを言わせてしまおうという態度のように見えることであります。その無礼と無作法とを黙認して
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