大菩薩峠
慢心和尚の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)某《それがし》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)信玄公|被管《ひくわん》の内にて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]
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         一

 お銀様は今、竜之助のために甲陽軍鑑の一冊を読みはじめました。
[#ここから1字下げ]
「某《それがし》は高坂弾正《かうさかだんじやう》と申して、信玄公|被管《ひくわん》の内にて一の臆病者也、仔細は下々《しもじも》にて童子《わらべこ》どものざれごとに、保科《ほしな》弾正|鑓《やり》弾正、高坂弾正|逃《にげ》弾正と申しならはすげに候、我等が元来を申すに、父は春日大隅《かすがおほすみ》とて……」
[#ここで字下げ終わり]
 それは巻の二の品《ほん》の第五を、はじめから、お銀様はスラスラと読みました。
 竜之助がおとなしく聞いているために、品の第六を読み了《おわ》って第七にかかろうとする時分に、
「有難う、もうよろしい」
「夜分には、また源氏物語を読んでお聞かせしましょう」
 二人ともに満足して、その読書を終りました。お銀様は書物に疲れた眼を何心なく裏庭の方へ向けると、小泉家の後ろには竹藪《たけやぶ》があって、その蔭にまだお銀様の好きな椿《つばき》の花が咲いておりました。お銀様はそれを見るとわざわざ庭へ下りて、その一輪を摘み取って来ました。重々しい赤い花に二つの葉が開いています。
「お目が見えると、この花を御覧に入れるのだけれど」
 柱に凭《もた》れていた竜之助の前へ、お銀様はその花を持って来ました。
「何の花」
「椿の花」
 お銀様はその花を指先に挿んで、子供が弥次郎兵衛を弄《もてあそ》ぶようにしていました。
「たあいもない」
 竜之助はその花を手に取ろうともしません。お銀様は、ただ一人でその花をいじくりながら無心にながめていました。
 さてお銀様は、机の上をながめたけれども、そこに、有野村の家の居間にあるような、一輪差しの花活《はないけ》も何もありません。
「お銀」
 竜之助はお銀様の名を呼びました。それは己《おの》が妻の名を呼ぶような呼び方であります。
「はい」
 お銀様はこう呼ばれてこう答えることを喜んでいました。自分から願うてそのように呼ばれて、このように答えることを望んでいるらしい。
 けれども竜之助は呼び放しで、あとを何の用とも言いませんでした。ただ名を呼んでみて、呼んでしまっては、もうそのことを忘れてしまっているようでしたが、実はそうではありません。
「あなた」
 お銀様は椿の花を面《かお》に当てて、その二つの葉の間から竜之助の面をながめました。
「この花をどうしましょう、わたしの一番好きな椿の花」
 お銀様はクルクルと、椿の花を指先で操《あやつ》りました。
 竜之助は返事をしません。けれどもお銀様はそれで満足しました。
「生けておきたいけれども、何もございませんもの」
 お銀様は、わざとらしくその花を持ち扱って、机の上や室の隅などを見廻しました。この一間に仏壇があることは、お銀様も前から知っていました。けれども、この花は仏に捧げようと思って摘んで来た花ではありません。ところが、持余《もてあま》し気味になってみると、そこがこの花の自然の納まり場所であるらしい。
 お銀様はその一花二葉の椿を持って、仏壇の扉をあけた時に、まだそんなに古くはない白木の位牌《いはい》がたった一つだけ、薄暗いところに安置されてあるのを見ました。位牌が古くないだけにその文字も、骨を折らずに読むことができます。
「悪女大姉《あくじょだいし》」
と読んでお銀様は、手に持っていた椿の花を取落しました。
「悪女大姉」の戒名《かいみょう》は、尋常の戒名ではありません。
 不貞の女をもなお且つ貞女にし、不孝の子をもなお孝子として、彼方《あなた》の世界へ送るのが人情でもあり、回向《えこう》でもあるべきに、これはあまりに執念《しゅうねん》の残る戒名であります。
 何の怨みあってその近親の人が、この位牌を祀《まつ》るのだかその気が知れないと思いました。また何の意趣があって、引導の坊さんがこの戒名を択《えら》んだのだか、その気も知れないと思いました。
 それがお銀様にとっては、単に文字の示す悪い意味の不快な感じだけでは留まりませんでした。悪女! お銀様はむらむらとして、ここにまで自分を見せつけられる憤《いきどお》りから忍ぶことができないもののようです。けれども、この位牌はお銀様に見せつけるために置かれたものでないことは、その木の肌を見ても、墨の色を見てもわかることでありま
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