まし」
馬子はお松の先に立って、崖道《がけみち》を桂川の岸へと下りて行きます。
しばらくしてこの馬子は、桂川の岸にある船小屋のところまで来ました。そこで振返ってお松の面を見て莞爾《にっこり》と笑いました。お松は提灯の光でその面を見たけれども、その意味を解すことができませんでした。
小屋の中には誰も住んではいません。炉の中には火もなければ、燃えさしもありません。
馬子は提灯を羽目《はめ》の一端にかけて置いて、床板を上げるその中から、空俵を程よくからげたのを一つ取り出しました。それを手早く解《ほぐ》して開くと、その中にいつ用意してあったのか、一組の衣類と、見苦しからぬ拵《こしら》えの大小一腰が現われました。
馬子は自分の衣裳を脱ぎ捨てて、空俵に包んであった衣類を着替えてしまいました。それもまた見苦しからぬ武士の着る衣裳であります。衣裳を着替えて、帯を締めて、それから足をこしらえにかかる手順が慣れたものであります。
身仕度をしてしまってから、腰をかけて草鞋《わらじ》を二足取って、その一足をお松の前に投げ出し、
「これをお穿《は》きなさい」
お松にあてがって、自分もまたその一足を穿く。
お松はただこの奇異なる人の為すところを夢見るような心持で見て、その為せというままに従うよりほかはありませんでした。
「これから御身と共に、拙者も江戸立ちじゃ」
と言って、サッサと先に立って、例の提灯を持ってこの舟小屋を立ち出でました。お松も無論そのあとに従いました。小屋を出て河原の町の方を見上げると、提灯の影がいくつも飛んで、人の罵《ののし》る声などもします。
それを見ていた奇異なる武士は、なんと思ってか自分の小田原提灯をフッと吹き消しました。四辺《あたり》はやはり真暗で、桂川の川波のみが音を立てて噪《さわ》いでいます。その暗い中で、奇異なる武士は無言にお松の手を取って引き立てました。しかしその疲れきっているのを認めて、
「拙者の背中をお貸し申そう、遠慮なさるには及ばぬ、それがたがいに楽でよろしい」
奇異なる武士はお松を背負うて、桂川の岸の大石小石の歩きづらい中を飛び越えて、流れと共に下って行くのであります。
底本:「大菩薩峠4」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
「大菩薩峠5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年
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