して悪いことを申し上げるんではございません」
がんりき[#「がんりき」に傍点]にこう言われてせき立てられてみると、お松の心が動かないわけにはゆきません。どのみち危ない道を踏んだ以上は、手を束《つか》ねて捕われの身になることもいやです。所詮《しょせん》、死を決したからには、逃げられるだけは逃げた方が怜悧《りこう》ではないかとさえ思われるのであります。しかし、人もあろうに、この男の手引で夜分逃げ出すということは、いくらなんでも、まだその気にはなれないでいるところへ、表の戸をドンドンと叩いて、
「先刻、お尋ねした和田静馬殿にお目にかかりたい」
それは紛れもなき役人たちの声であります。お松はこの声を聞くと、さすがに狼狽《うろた》えて立ちかけたところを、がんりき[#「がんりき」に傍点]はその左の手でお松の手首をとって、
「逃げなくちゃいけません、お逃げにならなくちゃ損でございます、馬鹿正直も時によりけりでございます」
早や表の方では、役人たちが案内されてこっちへ来る足音が聞えます。お松は我を忘れて大小を抱えると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は早くもお松の荷物を取って肩にかけていて、再びその手を取って、引きずるように廊下へ飛び出しました。
事の急なるがためにお松は、心ならずも、がんりき[#「がんりき」に傍点]に引摺られるようにして、この家を外に飛び出しました。
外に出て見ると外は真暗です。その真暗な中を、がんりき[#「がんりき」に傍点]は案内を知っていると見えて、お松の手を引きながらズンズンと進んで行ったが、
「誰だッ」
途中で不意に異様な声を立てて、お松の手を放してしまいました。
「ア痛ッ」
最初、誰だッと言った時に、がんりき[#「がんりき」に傍点]は何者にか一撃を加えられたようでありましたが、二度目にア痛ッと言った時には、たしかに大地へ打ち倒されていたものであります。
「うーん」
と言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]が地上で唸っているのを聞けば、打ち倒された上に、手強く締めつけられているもののようでありました。さては役人の手が、もうここまで廻っていたかとお松は驚いて、木蔭に身を忍ばせました。それにしても不思議なのは、もし役人であるならば、御用だとか、神妙にとか言葉をかけて打ってかかるべきはずであり、なにも、がんりき[#「がんりき」に傍点]一人だけを狙
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