応対する用意は充分であって、表面上はなんらの咎め立てを蒙《こうむ》るべき由もないのであるから、お松のような不安な心でなしに、たちどころにその役人を迎えました。
 役人は、またお松にしたように、そのいずれより来りいずれへ行くやを尋ねました。また兵馬に向って身分と姓名とを尋ねました。その時、兵馬は答えました。
「甲府勤番支配駒井能登守の家中、和田静馬と申す者」
「ナニ、貴殿が和田静馬殿と申される?」
 役人は眼を丸くしました。その上に念を押して、
「お間違いではござるまいな、しかと貴殿が和田静馬殿か」
「御念には及び申さぬ、元、駒井能登守の家中にて和田静馬と申すは、拙者のほかにはござらぬ」
「ところが、その和田静馬殿が二人ござるから、物の不思議でござる」
「なんと言われる」
「しかも、同じくこの上野原の宿屋へ今日泊り合せた客人に、同じく駒井能登守殿の家中にて、和田静馬と名乗る御仁《ごじん》がござる」
「これは不思議千万、その者はいずれの宿にいて、何を苦しんで拙者の名を騙《かた》るのか」
「それはただいま、我々が確かに会うてその名乗りを承って参った、当所の若松屋というのに、今も尋常に控えておらるる」
「はて怪しい、してその者の年頃は」
「貴殿よりは一つ二つお若うござるかな」
「それほどの年にしては大胆な。ともかく、それは心あってすることか、或いはまた旅路のいたずら心から、わざと拙者の名を用いるものか、これへ同道して突き合わせて御覧あればすぐにわかること」
「いかにも、貴殿がまことの和田静馬殿であることは、恵林寺の先触《さきぶれ》でも毛頭《もうとう》疑いのないところ、若松屋の若者こそ、甚だ怪しい、篤《とく》と吟味を致さねばならぬ」
「引捕えてこれへおつれあらば、拙者から懲《こ》らして済むものならば懲らしめ、意見して追い放すべき者ならば、意見を加えてみるも苦しうござらぬ」
「しからばその者を引捕えて、これへ連れて参ろう」
 役人や手先が立ち上った時に、兵馬はふと、何事か胸に浮んだらしく、
「お待ち下さい、なんにせよ、承れば年若の者、無下に恥辱を与えるも不憫《ふびん》ゆえ、拙者これより同道致し、穏かにその者に会うてみたい」
「それは御随意」
 兵馬は身仕度をして、わが変名の変名を名乗る若者の、何者であるかを見定めようとしました。
 若松屋の一室に和田静馬と名乗ったお松は、非常の
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