の狼狽《あわ》て方は尋常とは見えません。
それがために、せっかくお松に寄ろうとして来たがんりき[#「がんりき」に傍点]が、一言も物を言う遑《いとま》がなく、タジタジとさがって苦《にが》い面をしたが、そのまま前へ突き抜けて、トットと早足に行ってしまう有様は、逃げて行くもののようであります。がんりき[#「がんりき」に傍点]が、しかく狼狽するにかかわらず、馬子は、
「あははは、足の早い野郎だ」
と笑っていました。
なるほど、足の早い野郎で、忽《たちま》ちに後ろ影さえ見えなくなってしまいました。
「お武家様、お前様は、あの男に見込まれなさいましたね、お気をつけなさらなくちゃあいけませんぜ、あいつは執拗《しつこ》い奴でございますからなあ」
「馬子どの、お前は、あの人を知っておいでなのか」
「知っておりますよ、いやに悪党がって喜んでいる、たあいもない奴でございます」
「実は、あの者に取りつかれて困っています、なんとか遠ざける工夫はなかろうか」
お松は、ついこのことを馬子に向って口走りました。
「左様でございますねえ、こんど出て来たら取捉まえて、なんとかしてみましょう」
と馬子は言いました。なんとかしてみるというのは、どうしてみるつもりなのだろう。けれどもこの馬子ががんりき[#「がんりき」に傍点]を怖れないと反対に、がんりき[#「がんりき」に傍点]がこの馬子を怖れて逃げたことは今の挙動でわかるのですから、お松はなんとなくこの馬子を心強いものに思います。
この馬に乗ったお松は、犬目新田も過ぎ、矢壺《やつぼ》の座頭《ざとう》ころがしの険も無事に通って、例の鶴川の渡し場まで来ました。
ここは、その前の時分に宇治山田の米友が坊主にされたところであります。ここまで来る間に、どうしたのかがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵はまるきり音沙汰がありません。
前の時には、大勢の川越し人足がいたけれども、今は水の出も少ないし、人足でなしに、橋を架《か》けて橋銭を取って渡していました。定めの橋銭を払って、この橋を渡りきると、以前、川越し人足が詰めていた小屋があります。その小屋の中に休んでいたのは例の八州の役人と手先とでありました。
「これ待て」
お松を乗せた馬がこの前を通った時に呼びかけました。南条に似た馬子は、その声を聞いて聞かないようなふりして行こうとするのを、
「その馬待て」
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