お松はその心持で街道の方を眺めていました。
暫くした時に、その前をズッシズッシと通ったのは、昨日、笹子峠の坊主沢のあたりで遣《や》り過ごした八州の役人という一隊でありました。その一隊の人が、ズッシズッシと通って行く光景はなんとなく穏かでありません。昨日あれからどこまで行ったのか、甲府までは行くまいけれども、勝沼あたりまでは行って、それからまた引返して来たものに相違ないのであります。
いかに同行の人を求めたいからと言って、あの一行の中へ駆け込むわけにもゆかないから、お松はそれの通り過ぐる間は隠れるようにして、それが遠く離れたと思われる時分まで、わざとこの店に隙《ひま》をつぶしていると、そこへ頬冠《ほおかぶ》りをした逞《たくま》しい馬子《まご》が一人、馬を曳《ひ》いてやって来ました。
「御免なさいよ」
と言って頬冠りを取った馬子の面《かお》は日に焼けて髯《ひげ》だらけであるけれども、厳《いか》めしい面で、眼つきが尋常の馬子とは違うように見えます。眼つきが違うといっても、悪い方に違うのではありません。がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は身なりを小綺麗にしているにかかわらず、なんとなく小気味が悪い男であるけれど、いま入って来た馬子は、容貌が怖ろしげなのにかかわらず、一見して気味の悪いという感じをお松に与えないで、そのお粗末な服装の中に、どこやらに親しみのある人品が備わるように見えないでもありません。無雑作《むぞうさ》に入って来たけれども、そこにお松のあることを見て、丁寧に小腰をかがめました。
この店の親方とは、心安い間柄と見えて、話しぶりも打解けたものです。その話を聞くと、笹子まで客を送って行って、これから鳥沢へ帰るところであるということです。
この馬子は隅っこへ腰をかけて、お松の方を遠慮深く見ていたようでしたが、
「もし、お武家様」
と言って言葉をかけました。
「はい」
お松は馬子から言葉をかけられたので、少しうろたえて返事をしました。
「失礼でございますが、あなた様は、これからどちらへお越しでございます」
「江戸へ下ります」
「左様でございますか、お一人で……」
「はい」
「いかがでございましょう、どのみち帰りでございますから、お馬にお乗りなすっておくんなさいますまいか」
と言われて、お松は馬子の面《かお》をチラと見ました。人の悪い馬方や雲助の多いことでは
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