まするし、それから、あなた様の伯母さんだかお師匠さんだか存じませんが、あのお絹さんというのは、かくべつ御懇意なんでございます、間違ったら御免下さいまし、そのお内で、たしかお松様とおっしゃるのが、あなた様にそのままのお方でございましたよ」
「どうしてそれを」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と言ってお聞きになれば、あなた様のお近づきの人はみんな、なるほどと御承知をなさるでございましょう」
「ああ、それではぜひもない」
 少年はホッと息をついて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》を見ていたが、遽《にわ》かに声も言葉も打って変り、
「いかにも、わたしが神尾の邸におりました松でござりまする、こうして姿をかえて邸を脱《ぬ》けて出ましたのは、よくよくの事情があればのこと、どうぞお見のがし下さいませ」
「それそれ、それで私も安心を致しましたよ、神尾様のお身内なら、なんの、失礼ながら御親類も同様、これから、お力になってどこへなりと、あなた様のお望みのところへ落着きあそばすまで、このがんりき[#「がんりき」に傍点]が及ばずながら御案内を致しまする」
「なにぶん、お頼み致しまする」
 なにぶん、頼んでいいのだか悪いのだか知らないが、この場合、お松はこう言ってがんりき[#「がんりき」に傍点]に頼みました。
「ようございますとも。さあ、そう事がわかったら、こんな窮屈なところに長居をするではございません、本道をサッサと参りましょう」
 それから後は存外無事でありました。無事ではあったけれども、こんなに見透《みすか》されてしまった上に、これが肩書附きの人間であることがわかってみれば、決して気味のよい道づれではありません。
 しかし、こうなってみると、急にこの気味の悪い道づれと離れることもできないで、お松は笹子峠を越してしまいました。
 何事か起るべくして、何事も起らずに峠を越してしまいました。人にも咎《とが》められず、狼にも襲われることがありませんでした。ただこの道案内であり道づれである男が、かえって追手の者よりも恐ろしいものであり、或いは狼よりも怖《こわ》いものであるかどうかは、まだわからないことです。
 そうして黒野田の宿《しゅく》へ無事に着いて、まだ二三駅はらくに行ける時刻であったけれども、そこでひとまず泊ることになりました。がんりき[#「がんりき」に傍点]がお松を案内
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