ねて聞いてはいるし、またこのあたりの山々にはそれが住んでいて、時あっては人里までも出て来るという話も聞きました。けれども、そんな話をお君に聞かせることはよくないと思って、それで不快の感じがしたのであります。
「夜道などをするから悪いのじゃ、悠《ゆっ》くりと宿を取って日のうちに出で、日のうちに越えてしまいさえすれば、なんのことはなかろうに、無理をするからそんなことになる」
 兵馬はそう思いました。一体深山に棲《す》む狼は群れを成しているものだそうだけれど、兵馬は今までの旅に狼というものに出逢ったことがありません。狼に出逢ったことがないばかりでなく、狼というものの生きたのも死んだのもその実物を見たことはありませんでした。それは絵にかいたものだけによって、そう信じているだけでありました。
 こうは言うものの、明日、この女をつれて峠を越える時に、不意にそれらの悪獣に襲われたとしたら……それに対する用意をしておかなければならないのだと思いました。
 いったん帳場へ帰って、狼が人を食った話を馬方の口から詳細に聞いたあとで、お角はまた再び第一番の室、すなわち兵馬とお君のいるところへ見舞に行こうとして廊下を渡って行くと、
「ちょッ、ちょっと、お角」
 裏の垣根越しに呼び留めたものがあります。
「どなた」
 お角がその垣根越しを振返って見ると、雨の中を笠をかぶって合羽《かっぱ》を着た人。
「おや、お前は百さんじゃないか」
「叱《し》ッ、静かに」
「誰も見ていないから、早くその土蔵の蔭から七番の方へお廻り」
「大丈夫かえ」
「大丈夫だよ、あの裏木戸から入って」
「合点《がってん》だ」
 その垣根越しの笠と合羽は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であることに紛《まぎ》れもありません。
 二度まで見舞に行こうとして出端《でばな》を折られたお角は、またしても第一番の室へ行こうとした足を引返して、七番の座敷へ舞い戻って来ました。この七番の座敷というのは、自分の部屋として借りてある座敷です。
 お角がそこへ戻って来た時分に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、もう草鞋《わらじ》を脱いで縁の下へ突っ込んで、合羽を抱えてその座敷へ入り込んでいました。
「おっそろしい目に逢ったよ」
「何がどうしたの」
「昨日の夕方はお前、笹子峠の七曲りで狼に出逢《でっくわ》して、命からがらで逃げて来たんだ
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