「これはどなた」
という声は、少年にしてはあまりに優しい声であります。
「生憎《あいにく》の雨で、さだめて御退屈でいらせられましょう」
「これは御内儀でござったか。生憎の雨のこと故、もう一日、出立を見合せまする」
「どうぞ御悠《ごゆる》りとお留まり下さりませ、なにしろ、音に聞えたこの笹子峠でござりまする、お天気の時でさえ御難渋の道でござりまする」
「明朝は駕籠を頼み申しまする」
「はい畏《かしこ》まりました。あの、明朝はこのように雨が降りましても、やはり御出立でござりますか」
「左様……雨が降っては」
「雨が続きましたら、もう一日御逗留なさいませ、ごらんの通りの山家《やまが》、お構い申し上げることはできませんけれど」
「しかし……ちと急ぐこともある故、もし明朝は雨が降っても峠を越したいと思いまする」
「左様でござりまするか。左様ならばそのように駕籠を申しつけておきましょう」
「よろしく頼みまする」
「それではそのおつもりで……どうぞ御悠《ごゆる》りと」
 お角はお辞儀をして出て行こうとすると、
「あの、御内儀……」
 美少年は何か頼みたいことがあるもののように、立ちかけたお角を呼び留めました。
「はい」
「ちとお尋ね致したいが、あの峠へかかるまでにお関所がありましたな」
「はい、駒飼《こまかい》と申すところにお関所がござりまする」
「あの、その関所は、手形が無くては通してくれまいか」
「それはあなた様、お関所にはどちらにもお関所の御規則がありまして」
「それをどうぞして、抜けて通る路はあるまいか」
「あの、お関所の前をお通りなされずに?」
「粗忽千万《そこつせんばん》のことながら、その手形というものを途中で失うて困難の身の上、何と御内儀、よい知恵はござるまいか」
 美少年は一生懸命でこれだけのことを言いました。よほどの勇気をもってこの宿の主婦と見たお角にこのことを打明けて、相談をしてみる気になったものであります。
 しかし、これだけの相談として見れば、それだけの相談だけれど、表向きに言えば、お関所破りの相談であります。どうしたらお関所破りができるか教えてくれというようなものであります。お角はこの少年の面《かお》を篤《とく》と見ないわけにはゆきませんでした。
「それはそれはお困りのことでござりましょう、ほかのことと違いまして」
 お角も、さすがに即答がなり兼ねるらし
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