り切っていました。兵馬はお君を先に休ませて、明日の駕籠や乗物の事を心配しました。明朝と言っても、もう間もないことだから、今からどうしようという手筈《てはず》もつかないのであります。且《かつ》又《また》、弱り切ったお君の姿を見ると、このうえ駕籠に揺られて、険《けわ》しい山越しをさせることは考えものであります。
 そこで兵馬は、明日一日はここに逗留《とうりゅう》して隠れていようと思いました。その間に準備をととのえ、お君にも休息の暇を与えて、明後日の早朝に出立しようと考えたのであります。
 駕籠の中には兵馬の衣服大小の類も、路用の金も入れてありましたから、兵馬はそれを取り出して調べました。
 江戸へ送り届けて後のこの女の処分も、考えればまるで雲を掴《つか》むようなものです。まさかに能登守の本邸へ送り届けるわけにはゆくまいし、さりとて、江戸はこの女の故郷ではない。江戸へ連れ出してみての問題だが、ともかく、江戸へ連れ出しさえすればどうにかなるだろうと思いました。
 そうしてこの女を江戸へ届けて、ともかくも落着けてみてからの兵馬自身の行動は、直ちにまたこの甲州へ舞い戻って来ることであります。最も怪しむべきは神尾主膳である。駒井能登守を陥れた手段の如きは、聞いてさえその陰険卑劣なことに腹が立つ。わが狙《ねら》う仇も、確かにあの神尾が行方《ゆくえ》を知っているもののように思われてならぬ。こうなってみると、今は神尾を中心として当ってみることが最上である。場合によっては、あの邸へ斬り込んで……とまで兵馬は決心しました。
 疲れ切ったお君は、傍《かたわら》にスヤスヤと寝ているけれど、兵馬は寝もやらずに考えています。

         十

 その翌日は、あまり大降りではないけれども、とにかく雨が降りました。宇津木兵馬にとってはこの雨がかえって仕合せなくらいでありました。兵馬はお君をここで、できるだけ休養させようとしました。お君は病人のようで、兵馬はその看護をしているもののようにして、旅の用意を調えつつ、その日一日を暮らしました。
 ちょうどこの時に、この富永屋という宿屋に、一人の年増《としま》の女が逗留《とうりゅう》していました。
 この間、絹商人だという亭主らしい人と一緒に来て、その亭主らしい人はどこかへ出て行って、まだ帰って来ない間を、その年増の女がたった一人で幾日も待っているので
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