で、右は松原から差出の磯の河原につづくのであります。月は中空に円く澄んでいました。向うから歩いて来るのは僅かに一個《ひとつ》だけの人影であります。
「少々……物をお尋ね申したいが」
 笠を深く被《かぶ》って両刀を差して、袴《はかま》を着けて足を固めたまだ若い侍体《さむらいてい》の人、おそらく兵馬より若かろうと思われるほどの形でもあり、姿でもあり、またその声は、女かと思われるほどに優しい響きを持っておりました。
「はい」
 兵馬はたちどまりました。駕籠はこころもち足を緩めただけで進んで行きました。
「あの、七里村の恵林寺と申すのはいずれでござりましょうな」
「恵林寺は、これを真直ぐに進んで行き、塩山駅へ出で、再び尋ねてみられるがよい、大きな寺ゆえ、直ぐに知れ申す」
「それは忝《かたじけ》のうござる」
 若い侍は一礼して通り過ぎました。兵馬はその声が、なんとなく覚えのあるような声だと耳に留まったけれど、自分は近頃、あの年ばえの友達を持った覚えがありません。
「雲水様」
 駕籠屋が兵馬を呼びかけました。
「何だ」
「今のあの旅の若いお侍は、ありゃ何だとお思いなさる」
「何でもなかろう、やはり旅の若い侍」
「ところが違いますね」
「何が違う」
「何が違うと言ったって雲水様、こちとらは商売柄でござんすから、その足どりを一目見れば見当がつくんでございます」
「うむ、何と見当をつけた」
「左様でござんすねえ、ありゃ女でござんすぜ、雲水様」
「女だ?」
「左様でございますよ、男の姿をしているけれども、あの足つきはありゃ男じゃあございません、たしかに女が男の姿をして逃げ出したものでございますねえ」
「なるほど」
「当人はすっかり化《ば》けたつもりでも、見る奴が見れば、一眼でそれと見破られちまうんでござんす。これから大方、江戸表へでも落ちようというんでございましょうが、道中筋で飛んでもねえ目に会わされるのは鏡にかけて見るようだ」
「なるほど」
 兵馬は、さすがに駕籠屋が商売柄で、物を見ることの早いのに感心をし、そう言われてみると言葉の端々《はしばし》にも、男とは思われないようなものがあることを思い出して、長蛇のような亀甲橋を振返って、その後ろ姿を見送ります。
 兵馬はその後ろ姿を見送って、異様な心を起しました。
 橋を渡り終って松原へかかると、駕籠屋はまた不意に悸《ぎょっ》としました。
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