働きはじめました。勤番支配以下、組頭、奉行、それぞれに職務を励行することになりました。
これは、年が改まって心機が一転したからではありません。
どういう訳か知らないが、この頃、甲府の城へ御老中が巡視においでになるという噂《うわさ》でありました。しかも、その御老中も小笠原|壱岐守《いきのかみ》が来るということでありました。この人は幕末において第一流の人物でありました。この間まで謹慎しておられたはずの明山侯が、何の必要あって突然この甲府へ来られるのだかということは、勤番支配も組頭もみな計《はか》り兼ねておりました。
多分、上方《かみがた》の時局を収拾するためにこの甲州街道を通って上洛する途中、この甲府へ泊るのだろうと見ている者もありました。その他、いろいろにこの御老中の巡視ということが噂になっています。ともかくも、城の内外を疎略のないようにしておかなければならないというのが、新年の宿酔《しゅくすい》の覚めないうちから、急に支配以下が働き出した理由なのであります。
御本丸から始めて天守台、櫓々、曲輪曲輪《くるわくるわ》、門々、御米蔵、役所、お目付小屋、徽典館《きてんかん》、御破損小屋、調練場の掃除や、武具の改めや何かが毎日手落ちなく取り行われます。
駒井能登守もまた、このたびの老中の巡視ということを何の意味だか、よく知りません。けれども能登守は、あの人が幕府の今の御老中で第一流の人であるのみならず、その学問――ことに能登守と同じく海外の事情や砲術にかけてなかなかの新知識の人であることを了解していました。能登守を甲府へ廻したのは、或いはこの明山侯の意志ではなかったかとさえ言われています。
明山侯と能登守との意気相通ずるということは、神尾主膳等の一派、及び先任の支配太田筑前守を囲む一派のためには心持のよくないことであります。彼等は明山侯の来るのを機会として、雌伏《しふく》していた能登守が頭を擡《もた》げはしないかと思いました。かねて能登守を甲府へ廻しておいて、今日その機会が到来したために、明山侯がその打合せに来るものだろうとさえ邪推する者もありました。
そうでないまでも、それについてなんらかの対抗策を講じておかなければならないと思いました。まんいち能登守が勢力を得る時は、我々が勢力を失う時だと焦《あせ》り出した者もあります。これらの連中は、このたびの老中の巡視ということを、一身の浮沈の瀬戸際《せとぎわ》のように気味を悪がり、それで自分たちの立場を擁護するためには、能登守の頭を擡げないように、釘《くぎ》を打ってしまわねばならぬと考えました。
それがために、駒井能登守の立場は非常に危険なものになりました。登城しても、役所へ行っても、お茶一つ飲むことも能登守は用心をしました。夜はほとんど外出しませんでした。明山侯の来る前に、能登守を毒殺してしまおうという計画があるとの風説がありました。また夜分、忍びの者を入れて暗殺させようとしているとの風説もありました。また、能登守の内事や私行をいちいち探らせているとの忠告もありました。
年が改まって、そうして変りのあったのは、これらのことのみに限りません。
駒井能登守に仕えていたお君の身の上に、重大な変化が起りました。前には戯《たわむ》れに結《ゆ》ってみた片はずしの髷《まげ》を、この正月から正式に結うことになりました。いつぞやの晩には恥かしそうに密《そっ》と引掛けた打掛を、晴れて身に纏《まと》うようになりました。それと共にお君の周囲には、一人の老女と若い女中とがお附になって、使われていたお君が、それを使うようになりました。
お君は、我から喜んで美しい眉を落してしまいました――家中《かちゅう》の者は皆この新たなるお部屋様のために喜びました。能登守のお君に対する愛情は、無条件に濃《こま》やかなものでありました。ほとんど惑溺《わくでき》するかと思うほどに、愛情が深くなってゆきました。
お君のためには、新たなる部屋と、念の入《い》った調度と、数々の衣類が調えられました。お君は夢に宝の山へ連れて行かれたように、右を見ても左を見ても嬉しいことばかりであります。
お君の血色にもまた著しい変化がありました。笑えば人を魅するような妖艶《ようえん》な色が出て来ました。そして何事を差置いても、その色艶《いろつや》に修飾を加えることが、お君の第一の勤めとなりました。
お君はこれがために費用を惜しみませんでした。能登守もまた、お君のために豊富な支給を与えて悔ゆることがないのでありました。江戸の水、常磐香《ときわこう》の鬢附《びんつけ》、玉屋の紅《べに》、それを甲府に求めて得られない時は、江戸までも使を立てて呼び求めます。
お君にとっての仕事は、もはや、それよりほかに何事もありません。その仕事は、出来上れば出来上るほどに、お君の形体と心とを変化させずにはおきません。
笑うにも単純な笑いではありません。その笑いの末には罠《わな》があって、人を引き落すような笑いになってゆきます。物を言うにも無邪気な言いぶりではありません。そのうちに溶けるような思わせぶりを籠めておりました。物を見る目はおのずから流眄《ながしめ》になって、その末には軟らかい針をかけるようになりました。お君はその愛情を独占しているはずの能登守に対してすら、この笑いと、思わせぶりと、流眄とをやめることができませんでした。
能登守というものは、みるみるこのお君のあらゆる誘惑のうちに溶けてゆきました。お君の誘惑はいわば自然の誘惑でありました。能登守を誘惑しつつ自分もまたその誘惑の中に溶けてゆくのでありました。お君には殿様を誘惑する心はありません。おのれの色香を飾って為めにする計画もありません。それは新しい春になって、山国の雪の中にも梅が咲き、鶯《うぐいす》がおとずれようとする時候になったとはいえ、この邸から忍び音の三味の調べをさえ聞こうとは思いがけぬことであります。
外においての能登守が、あんなに煙がられたり邪推されたりしているのに、内においてのこの殿様はたあいないもので、ほとんど終日お君の傍を離れぬことがありました。お君はその誘惑のあらん限りを尽して、能登守を放そうとはしませんでした。
世に食物を貪《むさぼ》るもので、惑溺の恋より甚だしいものはありません。無限の愛情を注がれても、お君はまだまだ満足したとは思いませんでした。能登守は、噛《か》んで、喰い裂いて、飲んでしまっても、まだ足りないほどにお君が可愛くて可愛くて、どうにもならなくなってしまいました。
この際において、お君の心の中のいずこにも、宇治山田の米友を考えている余裕はありません。
お君――ではない、お君の方《かた》であります。けれども昨日までのお君を急に、お君の方に改めることは、屋敷のうちの格式ではよしそうであっても、なんとなくきまりが悪い。お君もまたその当座は、自分のことでないように思います。
お君の方は今、その花やかな打掛の姿で、片手には銚子《ちょうし》を持って廊下を渡って行きました。少しばかり酔うているのか、その面《かお》は桜色にほのめいているばかりでなく、廊下を走るあしもとまでが乱れがちでありました。
廊下の庭から梅の枝ぶりの面白いのが、欄干《てすり》を抜けて廊下の板の間まで手を伸ばしておりました。その面白い枝ぶりには、日当りのよいせいで、梅の花の蕾《つぼみ》が一二輪、綻《ほころ》びかけています。
「ホホホ、もう梅が咲いている」
お君の方はたちどまって、手近な、その一枝を無雑作に折って、香いを鼻に押し当て、
「おお好い香り、ああ好い香い」
心のうちにときめく香りに、お君は自分ながら堪えられないように、
「殿様に差上げましょう、この香りの高い梅の花を」
お君はそれを銚子の間に挿《さ》し込んで歩みを移そうとした途端に、よろよろとよろめき、
「おや」
それはほろ酔いの人としては、あまりに仰山なよろめき方であります。打掛の裾が、廊下の床に出ている釘かなんぞにひっかかったものだろうと思って、片手に打掛を捌《さば》き、
「おや」
振返ってみるとその打掛の裾は、廊下の下にいる何者かの手によって押えられているのでありました。
「君ちゃん」
「まあ、誰かと思ったら米友さん」
お君の打掛の裾を廊下の下から押えたのは、背の低い米友でありました。
「米友さん、悪戯《いたずら》をしては困るじゃないか」
「なにも悪戯をしやしねえ」
「だって、そんなところで押えていては」
「用があるからだ」
「何の用なの」
「君ちゃん、いまお前は、ここの梅の枝を一枝折ったね、その枝を俺《おい》らにおくれ」
「これかい、この梅の枝を友さん、お前が欲しいのかい」
「うむ」
「そうして、どうするの」
「どうしたっていいじゃねえか、欲しいから欲しいんだ」
「欲しければお前、こんな花なんか、わたしに強請《ねだ》らなくても、いくらもお前の手で取ればいいじゃないか」
「そんなことを言わずに、それを俺らにおくれ」
「これはいけないよ」
「どうして」
「これは殿様に上げるんだから」
「殿様に?」
と言って米友は強い目つきでお君を見ました。
「これは、わたしから殿様へ差上げる花なんだから、友さん、お前ほしいなら別に好きなのを取ったらいいだろう、ほら、まだ、あっちにもこっちにもいくらも咲いているじゃないか」
お君はチラホラと咲いている梅の木の花や蕾《つぼみ》を、米友に向って指し示すのを、米友は見向きもせずに、お君の面《おもて》をじっと見つめていましたが、
「要《い》らねえやい」
「おや、友さん、怒ったの」
「ばかにしてやがら」
米友は、そのままぷいと廊下の縁の下を潜《くぐ》り抜けて、どこかへ行ってしまいました。
駒井能登守が役所へ出かけたそのあとで、お君は部屋へ行ってホッと息をついて、微醺《びくん》の面《おもて》を両手で隠しました。
障子の外には日当りがよくて、ここにも梅の咲きかかった枝ぶりが、面白く障子にうつっています。
お君は脇息《きょうそく》の上に両肱《りょうひじ》を置いて、暫らくの間、熱《ほて》る面を押隠していましたが、そのうちにウトウトと眠気がさしてきました。
「お冷水《ひや》を持って来て」
「はい」
次の間で女中が返事をすると、まもなくギヤマンの美しい杯《さかずき》が蒔絵《まきえ》の盆の上に載せられて、若い女中の手で運ばれました。ギヤマンの中には玉のような清水がいっぱい満たされてあります。お君はそのお冷水《ひや》を口に当てながら、
「わたしは眠いから少し休みたい、お前、床を展《の》べておくれ」
「畏《かしこ》まりました」
「それから、あの犬に何かやっておくれかい」
「いいえ、まだ」
「忘れないように」
「畏まりました」
女中が出て行った後で、お君は水を一口飲んでギヤマンを火鉢の傍へ置き、それから鏡台に向い、髪の毛を大事に撫で上げました。笄《こうがい》を抜いたりさしたりしてみました。紅《くれない》のさした面《かお》を恥かしそうにながめていました。こうしている間もお君は、自分の身の果報を思うことでいっぱいであります。女中のよく言いつけを聞いてくれることも嬉しくありました。鏡がよくわが姿をうつしてくれるのも嬉しくありました。撫であげる髪の毛の黒いことも嬉しくありました。笄の鼈甲《べっこう》から水の滴《したた》るようなのも嬉しくありました。面から襟筋の白粉も嬉しいけれど、胸から乳のあたりの肌の白いことも嬉しくありました。殿様の美男であることが嬉しくありました。自分を産んでくれた母の美しかったということも嬉しくありました。
「ムクかい、待っておいでよ」
お君はこうして鏡台に向っていながらも、ツイその日当りのよい縁先へ、ムク犬が来たということには気がつきました。
気がついたけれども、障子をあけて犬を見てやろうとはしないで、やはり鏡に向って髪の毛をいじりながら、そう言って言葉をかけただけであります。人の愛情は二つにも三つにもわけるわけにはゆかないのか知らん。能登守に思われてからのお君は、犬
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