があろうとは、米友には思い当らないし、ムク犬もまたほかの人に、こんな用を頼まれるような犬ではないはずであります。
 米友は、いよいよ不審の眉根《まゆね》を寄せながら、ついにその結び文を解いて見ました。読んでみると文句が極めて簡単なものであった上に、しかも余の誰人に来たのでもない、まさに自分に宛てて来たもので、
[#ここから1字下げ]
『米友さん裏の潜《くぐ》り戸《ど》をあけて下さい』
[#ここで字下げ終わり]
と書いてあるのでありました。
「わからねえ」
 米友は、その文面を見ながら、いよいよ困惑の色を面《かお》に現わしました。それは確かに女の手であります。女の手で見事に認《したた》められてあるのであります。
「いよいよ、わからねえ」
 米友の知っている唯一のお君は手紙の書けない女であります。このごろ、内密《ないしょ》で文字の稽古はしているらしいが、それにしても、こんな見事に書けるはずはないのであります。そのお君を別にして……まさか米友を見初《みそ》めて附文《つけぶみ》をしようという女があろうとは思われません。
「誰かの悪戯《いたずら》だ」
と疑ってみても、このムク犬が、こんな悪戯のな
前へ 次へ
全207ページ中74ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング