はしおらしいものでありました。起き直ったけれども、やはり炬燵にあたっていた机竜之助は、その声を聞いてもまだ眼を開くことをしません。
「どうぞ、このままわたくしをお逃がし下さいませ」
お銀様は折返して、机竜之助の前に助命の願いをしました。けれども竜之助は、やはり眼を開くことをしないし、また一言の返事をも与えないのでありました。それでもお銀様の言葉には、ようく耳を傾けているには違いありません。
「ああ、わたくしは一刻もこの家にこうしてはおられぬのでござりまする、神尾主膳は悪人でござりまする、こうしておれば、わたくしは幸内と同じように殺されてしまうのでござりまする、あなた様はどういうお方か存じませぬが、どうかこのままお逃がし下さいまし、一生のお願いでござりまする」
お銀様は竜之助に歎願のあまり、伏し拝むのでありました。けれども竜之助は、眼を開いてその可憐な姿を見ようともしなければ、口を開いて、逃げろとも助けるとも言いませんでした。ただお銀様の一語一語を聞いているうちに、その面《おもて》にみるみる沈痛の色が漲《みなぎ》り渡るのみでありました。
「それでは、わたくしはこのまま御免を蒙りまする、いずれまた人を御挨拶に遣《つか》わしまする」
お銀様は愴惶《そうこう》としてこの部屋を立って行こうとした時に、竜之助がはじめて、
「お待ちなさい」
と言いました。
「はい」
お銀様は立ち止まりました。
「これからどこへおいでなさろうというのです」
「はい、有野村まで」
「有野村へ?……外は近来《ちかごろ》の大雪であるらしいのに」
「雪が降りましょうとも雨が降りましょうとも、わたくしは帰らずにはおられませぬ」
「外は雪である上に、駕籠《かご》も乗物もここにはあるまい」
「そんな物はどうでもよろしうござりまする、わたくしは逃げなければなりませぬ、帰らなければなりませぬ」
「駕籠も乗物もないのに、外へ出れば人通りもあるまい、道で吹雪《ふぶき》に打たれて凍《こご》えて死ぬ……」
「たとえ凍えて死にましても、わたくしは……」
「そりゃ無分別」
「ああ、思慮も分別も、わたくしにはわかりませぬ、こうしておられませぬ、こうしてはおられませぬわいな」
「待てと申すに」
竜之助の声は、寒水が磐《いわお》の上を走るような声でありました。お銀様はゾッとして立ち竦《すく》んでしまいました。見ればこの人は
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