は馬場の松……武田の名将馬場美濃守が植えたと申す馬場の松」
「ほんとに見事な松でございます」
「そなたの家は甲州で並ぶもののない大家《たいけ》、それでもあのくらいの松はあるまい、あのくらい見事な松は、そなたの屋敷にもあるまい」
「わたくしどもの庭にも、このような見事な松はござりませぬ」
「左様であろう、この神尾は貧乏だけれど、そなたの家にも無い物を持っている」
と言って、神尾は二三度|頷《うなず》きました。それからニヤリと笑って、
「まだまだ、神尾の家には、そなたの家には無くて、神尾の家だけにある宝が一つある、それを見せて進ぜようか」
と言いながら主膳は、またしても例の梨子地の鞘の刀を引寄せて、
「この刀なんぞもその一つじゃ、よく見て置かっしゃれ、鞘はこの通り梨子地……鍔《つば》の象眼《ぞうがん》は扇面散《せんめんち》らし、縁頭《ふちがしら》はこれ朧銀《ろうぎん》で松に鷹の高彫《たかぼり》、目貫《めぬき》は浪に鯉で金無垢《きんむく》じゃ」
主膳はその刀を取って鞘のまま、お銀様の眼の前に突きつけました。
「結構なお差料《さしりょう》でござりまする」
お銀様は、怖れとそれから迷惑とで、刀はよくも見ないで挨拶だけをしました。
「いや、これしきの物、そなたの眼から結構と言われては恥かしい。そなたの家の倉や土蔵には、このくらいの刀や拵《こしら》えは掃いて捨てるほど転がっているはずじゃ。神尾の家ではこれだけの拵えも自慢になる。ナニ、たかの知れた鍔の象眼、縁頭の朧銀が何だ、小《ちっ》ぽけな金無垢……」
主膳は自慢で見せたものを嘲りはじめました。お銀様は自分の賞め方が気に触ったのかと思いました。
「いいえ、どう致しまして、このような結構なお差料が私共の家なんぞに……」
「無いであろう。そりゃ無いはずじゃ、このくらい結構な差料は、そなたの家はおろか、甲州一国を尋ねても……いやいや、日本六十余州を尋ねても、二本三本とは手に入るまい。それを神尾が持っている、それ故そなたに見せて進ぜたいと申すのじゃ」
「わたくしどもなぞには、拝見してもわかりませぬ」
「見るのはおいやか、せっかく拙者が親切に、秘蔵の名物を見せてあげようとするのに、そなたはそれを見るのがおいやか」
「そういうわけではござりませぬ」
「しからば見て置かっしゃい、ようく見て置かっしゃい」
主膳はお銀様の目の前でその刀をス
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