へ行ってそれを掻《か》き立てた時に、頭巾から洩れる面体《めんてい》をうかがえば、それが神尾主膳であったことは、意外のようで意外でありますまい。
 主膳はソロソロと昏睡《こんすい》している幸内の枕許へ寄って来て、その寝顔を暫らくのあいだ見ていました。そうしてニッとして残忍な笑い方をしましたが、背中を行燈の方に向けて、幸内の枕許へ立ちはだかるようにしてしまったから、何をするのだか挙動が少しもわからないが、ただ懐《ふところ》から縄を出して扱《しご》くような素振《そぶり》をしたり、またそこらにあったものを引き寄せるような仕事をしているうちに、寝ていた幸内が、
「ウーン」
とうなり出したのを、主膳はその頭の上から蒲団《ふとん》を被せて抑えましたから、幸内のうなる声は圧《お》し殺されたように絶えてしまいました。
 それで静かになってしまうと、主膳はまた行燈の方へ向き直りましたが、幸内は蒲団を被せられてしまっているから、どうなったのかサッパリわかりません。ただ前よりは一層おとなしくなってしまったようであります。行燈の方へ向き直った主膳は、思わず小さな声で、
「あっ」
と言って自分の両の手先を見ました。その手先へ鬼蜘蛛《おにぐも》のような血の塊《かたまり》がポタリポタリと落ちている。
「ああ鼻血か」
 主膳は、仰向いて、その手を加減しながら自分の懐中《ふところ》へ入れて畳紙《たとう》を取り出して面に当てました。いま主膳を驚かしたその血の塊は、外《よそ》から出たのではありません、自分の鼻から出た鼻血でありました。けれども紙で拭いたその血を行燈の光で見ると夥《おびただ》しいもので、黒く固まってドロドロして、しかもそれが一帖の畳紙《たとう》を打通《ぶっとお》して染《し》みるほどに押出して、まだ止まらないのです。
 神尾主膳は、そのあまりに仰山な鼻血の出様に、自分ながら怖くなったようでありました。鼻血を抑えながら、あたりを始末して以前の戸口からこの座敷を脱《ぬ》け出しました。

         二

 お銀様がこの夜中に家を脱け出したのは、あまりと言えば無謀です。けれどもそれが無謀だか有謀だかわかるくらいならば、家を脱け出すようなことはしますまい。ともかくも、こうしてお銀様は無事に屋敷を脱け出し、有野村を離れて甲府をさして闇の中をヒタ歩きに歩きました。その途中、無事であったことは幸いです
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