の侍ではなくて、その若党とも覚《おぼ》しき覆面をしない侍でありました。
「はい、有難う存じまする、別に怪我はござりませぬ」
 お角はすぐにお礼と返事とをしました。
「何しろ危ねえことでございます、血がこんなに流れているから、わっしどもはまた、お前様がここに殺されていなさるとばかり思った」
 気味悪そうに提灯を突き出して四方《あたり》を見廻しているのは、やはりこの人品骨柄のよい覆面の侍のお伴《とも》をして来た草履取《ぞうりとり》の類《たぐい》であろうと見えます。
「血が流れていて人が殺されていないから不思議。お女中、そなたはいずれの、何という者」
「いいえ、あの……」
「包まず申すがよい」
「あの、わたくしは……」
 お角は問い糺《ただ》されて、おのずから口籠《くちごも》ります。その口籠るので、若党、草履取はお角にようやく不審の疑いをかけると、
「これには何ぞ仔細があるらしい、ともかく屋敷へ同道致すがよかろう」
と言ったのは、人品骨柄のよい覆面の武家でありました。その声を聞くと爽《さわや》かな、まだお年の若いお方と思われるのみならず、その声になんとやら聞覚えがあるらしく思われるが、お角は急には思い出されません。
「いいえ、わたくしはここで失礼を致します、もうあの、大丈夫でございますから」
と言って、やみくもに袖を振切って駈け出してしまいます。
 一行の人はその挙動を呆気《あっけ》に取られて見ていたが、別に追蒐《おいか》ける模様もなく、屋敷へ帰ってしまいました。
 その屋敷というのは駒井能登守の屋敷であって、覆面の品のよい武家は主人の能登守でありました。
 このことについて、その翌日、何か風聞が起るだろうと思ったら、更に起りませんでした。あの附近を通った者が、血の痕《あと》のあることをさえ気がつかずにしまいました。恐らく昨夜のうちに、それを掃除してしまったものがあるのでありましょう。その場のことはそれだけで過ぎてしまいました。

         十二

 甲府の市中にもこのごろは辻斬の噂が暫く絶え、御老中が見えるという噂も、どうやら立消えになったようであります。それで甲府の内外の人気もどうやら気抜けがしたようであったところに、はしなく士民の間に火を放《つ》けたような熱度で歓迎される催しが一つ起りました。その催しというのは、府中の八幡宮の社前で、盛大なる流鏑馬《やぶさめ
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