の眼は狂喜にかがやいて見えました。
こうしてお君は能登守から、箱に入れたまま紙取りの写真をいただいて帛紗《ふくさ》に包み、後生大事《ごしょうだいじ》に袖に抱えてこのお邸を立ち出でました。
それから御門まで来る間も、お君は嬉しさで宙を歩んでいるような心持です。その嬉しさのうちには、やはり胸を騒がせるような戦《おのの》きが幾度か往来《ゆきき》をします。その戦きはお君にとって怖ろしいものでなく、心魂《しんこん》を恍《とろ》かすほどに甘いものでありました。
「わたしは、あの殿様に好かれている、あの殿様は、わたしを憎いようには思召していない、たしかに――」
お君は身を揺《ゆす》って、そこから己《おの》れの心の乱れて行くことを、更に気がつきません。
ましてや、お君は、お銀様に頼まれて来たことも、そのお銀様がお濠《ほり》の外で待ち焦《こが》れておいでなさるだろうということも、この時は思い出す余裕がありませんでした。さいぜん親切に案内された門番へさえも、一言《ひとこと》も挨拶をしないで門を通り抜けようとして、門番から言葉をかけられてようやく気がついて、あわててお礼を言ったくらいでありました。
橋を渡って、お銀様を待たせた柳の樹のところへ来て見たが、そこにお銀様の姿が見えませんでした。
「お嬢様は……」
と言って、お君はそのあたりを見廻しましたけれども、そのあたりのいずれにもお銀様らしい人の影は見えません。
その時に、お君は自分が能登守の前に、あまり長くの時を費《ついや》したことを考えました。待たせる自分は嬉しさに包まれて時の移るのを知らなかったけれど、待たせられたお嬢様にとっては、ずいぶん長い時間であったろうと気がつきました。
二
これより先、お濠の岸に立ってお君の帰るのを待っていたお銀様は、そのあまりに長いことに気をいらだちました。
役割の市五郎が傍へ寄って来た時に、お銀様は振返ってそれを睨《にら》みました。市五郎はなにげなくそれを反《そ》らして行ってしまったが、お銀様がそれを忘れてやや久しいのに、お君はまだ御門から出て来る模様がありません。
お銀様はお城の方を睨んで、荒々しく足踏みをしました。それからお濠の岸を、あっちへ行ったりこっちへ帰ったりしていました。
そうすると、問屋場の方から五六人かたまって私語《ささや》きながらこっちへ来る者があります。それは例の折助連《おりすけれん》であります。
自分で無理にすすめて廓《くるわ》の中へやっておきながら、お銀様は焦《じ》れて焦れてたまらなくなっていました。自分を平気でこんなに待たせておくお君を呪《のろ》うような心持になって、城の方ばかり睨んでいましたから、この五六人の折助連が私語《ささや》きながらこっちへ近づいて来ることも気がつきません。
そうしていると、折助の一人が、ふらふらと歩いて来て、お銀様に突き当るようにしてすれ違って、
「危ねえ、危ねえ」
と言いましたから、お銀様も気がつくとその折助は酔っていて、足許も定まらないようであります。お銀様は驚いてそれを避《よ》けました。それを避けるとその次に、また一人の折助が通りかかって、同じようにお銀様に突き当ろうとしました。お銀様は、また驚いてそれを避けると、第三番目の折助が、とうとうお銀様にぶっつかってしまいました。お銀様は危なく足を踏み締めますと、
「やい、気をつけやがれ」
とその折助が言いました。わざとする乱暴さに、お銀様は口惜しがって折助どもを睨《にら》めて立っていました。お銀様の眼つきは、ことさらに睨《にら》めないでも、いつも怒気を含んでいるように見えるのであります。
「へへへへへ、これはこれは」
と言って折助は急に、ふざけた声色《こわいろ》を使って、頭巾で隠してあるお銀様の顔をワザと覗《のぞ》き込むようにして、
「お女中のお方でいらっしゃる、それとは知らず飛んだ御無礼」
なんぞと言って、またまたワザとらしい声色と身ぶりでお辞儀をしました。
お銀様は、それを見ないでぷいと向き直って歩き出すと、
「兄弟《きょうでえ》、どうしたんだい」
と言ってほかの折助が寄って来ました。
「いや、このお女中に飛んだ失礼をしてしまったんだ、ツイ足がよろめいたために、このお女中に突き当ってしまったから、今、謝罪《あやま》っているところなんだ、兄弟、なんとかとりなしてくんねえ」
と、前の折助がこんなことを言いました。
「そいつは悪いことをした。まあ、どちらのお女中さんか知らねえが、この野郎は、平常《ふだん》から軽佻《かるはずみ》な野郎でございますから、ナニ、別に悪い心があってするわけじゃございません、どうぞ御勘弁してやっておくんなさいまし」
ほかの折助が、これもまたワザとらしい身ぶりと声色で、揉手《もみで》をしながら、お銀様の方へとかたまって来るのであります。
お銀様は腹を立てました。無礼にも無作法にも限りのないやつらだと、口惜しくてたまりませんでした。それだから黙って彼等を振り払って行こうとすると、その前へ廻り、
「どうか、御勘弁をなすっておくんなさいまし」
それを振り払って、また進んで行くと、
「野郎が、あんなに謝罪《あやま》るんだから、どうか御勘弁をして上げておくんなさいまし」
お銀様は心の弱い女ではありません。どちらかと言えば気丈な女であります。それだからこれらの無作法な折助に一言も口を利くことをいやがりました。それを振り払って避けようとしました。
折助どもはそれを前後から取捲くようにして追いかけるのは、どうも何か計画あってすることとしか思われません。
「これほど謝罪《あやま》っても、何ともお許しが出ねえのは、よくよく見倒された野郎だ」
と折助の一人が言いました。
「ナーニ、お女中さんが縹緻《きりょう》がよくっていらっしゃるから、それで気取っておいでなさるのよ、下郎どもとは口を利くも汚《けが》れと思っておいでなさるんだ」
と、また一人の折助が言いました。
「違えねえ、折助なんぞはお歯に合わねえという思召しなんだから、それでお言葉も下し置かれねえのだろう。ああ、情けなくなっちまわあ、孫子《まごこ》の代まで折助なんぞをさせるもんじゃねえ」
と言って、また摺《す》り寄ってお銀様の面《かお》を覗き込むようにしました。お銀様がついと横を向くと、乗り出してわざとまた覗き込んで、
「はははは」
一度に笑いました。お銀様は歯咬《はがみ》をして彼等を押し退けて避けようとすると、折助たちは、ゾロゾロと後をついて来るのであります。お銀様は、ついに立ち竦《すく》んでしまうよりほかはなくなりました。
そうすると、折助もまたその周囲に立ちはだかりました。
「お前たちは女と侮《あなど》って、このわたしに無礼なことをする気か」
お銀様はこらえきれなくなったから、声を慄《ふる》わして折助どもを詰責《きっせき》しました。お銀様でなかったら、ぜひはさて措《お》いて、一応この折助どもに謝罪《あやま》ってみるべき儀でありましたけれど、お銀様は口惜しさに堪えられないで、わが家の雇人を叱るような態度で嵩《かさ》にかかりました。
「どう致しまして、無礼をするなんぞと、そんなことがございますものですか、お女中がお一人では途中が案じられますから、こうしてお送り申し上げようと言うんでございます」
折助はこう言いました。
「わたしは、ほかに連れの者がある、それを待っているの故、お前方のお世話は要《い》らぬ」
お銀様は、やはり叱るような言いぶりであります。折助どもは、お銀様が何か言い出すのを待っていたと言わぬばかりでしたから、
「そんなことをおっしゃらなくたっていいじゃあございませんか」
「無礼なことをすると許しませぬ」
お銀様は懐中へ手を入れました。その時に一人の折助が、横の方からお銀様の被っていた頭巾を引張りました。眼ばかり見えていたお銀様の面《かお》の口もとから額へかけて、斜めにその呪われた怖ろしい面が見えました。
「はははは」
と折助どもは声高く笑いました。歯をキリキリと噛み鳴らしたお銀様は、キラリ光るものを手に持っていました。
「やあ、危ねえ、刃物を持っている」
前後から五六人の折助が寄ってたかって、お銀様の持っていた懐剣を奪い取ろうとして、怪我をしたものもありました。
「面倒くさいから引担《ひっかつ》いでしまえ」
彼等は寄ってたかって無礼な振舞に及ぼうとする時に、妙詮寺《みょうせんじ》の角から突然《いきなり》飛び出して来た強そうな男。
「この野郎ども、飛んでもねえことをしやがる」
折助どもをポカポカと殴り飛ばして、その一人を濠の中へ蹴込みました。
「やあ、役割!」
と言って、折助はたあいもなく逃げてしまいました。この場へ来合せた強そうな男は、役割の市五郎であります。
「お嬢様、もう御安心なさいまし、ほんとにあいつらあ、悪い奴だ、お嬢様とも知らずに碌《ろく》でもねえことをしやがる」
市五郎がこんなことを言って慰めているところは市五郎の宅であります。
「市五郎どのとやら、お前が来てくれなければ、わたしはドノような目に会ったことやら。よいところへお前が来てくれたから、それで悪者がみんな逃げてしまいました」
お銀様は泣いていました。
「ナニ、たかの知れた折助どもでございますが、打捨《うっちゃ》っておくと癖になりますから、少々大人げねえと思いましたけれど、二つ三つ食《くら》わしてやりました。御心配なさいますな、これからお屋敷まで送らせて差上げますから」
「市五郎どのとやら、わたしには連れの者があってそれを待っていたところ、その連れの者に沙汰をして貰いたい」
「左様でございますか、そのお連れの方とおっしゃるのはどちらへおいでになりました」
「御城内まで参りました、もう帰って来て、あのお濠《ほり》の傍で、わたしを探していることと思います、早う、そこへ人をやって、わたしがここにいることを知らせて下さい」
「へえ、よろしうございますとも。そうしてそのお連れの方のお名前は何とおっしゃいますな」
「それは君といって、年もわたしと同じ位、わたしと同じこのような衣裳を着ておりますわいな」
「なるほど、お君さんとおっしゃるのでございますな、へえ、よろしうございます、今、人をやってお迎え申して差上げますから、御安心なさいまし」
「この甲府にも、わたしの親戚はあるけれど、誰にも言わないように頼みます、わたしが悪い者に出会って、あんな狼藉《ろうぜき》をしかけられたと、それを世間に知られては外聞になるから、内密《ないしょ》に頼みます」
「へえ、もうその辺は心得たものでござりまする、人様の外聞になるようなことを、頼まれたって触れて歩くような、そんな吝《けち》な野郎でもございませんから御心配なさいますな。まあ、なんにしてもお怪我がなくてようございました」
「あの、早く連れの者に沙汰をして」
「へえ、よろしうございます、いま使に出した野郎が、もう帰って来ますから、帰って来たらすぐに飛ばせてやりますでございます、お乗物なんぞは、ここで一声|怒鳴《どな》れば御用が足りるんです。嬶《かかあ》でもいるとお髪《ぐし》やお召物のお世話をして上げるんでございますけれども、まあそのうちに嬶も帰って参りますから」
「髪や着物などはかまいませぬ、あのお君が帰って来さえすれば、直ぐにお暇《いとま》をして屋敷へ帰りたい、早くあの子へ沙汰をして」
「へえへえ。どうも困ったな、いつも二人や三人はゴロゴロしているくせに、今日に限って嬶までが出払ってしまうなんて。と言って俺が出向いて行けば家は空《から》になるし……野郎どもも大概《てえげえ》察しがありそうなものだ、ぐずぐずしていると日が暮れちまうじゃねえか、日が暮れちまった日にゃあ、お嬢様をここへお泊め申さなけりゃならなくなるんだ。そんなことにでもなってみろ、お屋敷でどんなに心配なさるか知れたもんじゃねえ」
市五郎は焦《じ》れ気味で独言《ひとりごと》を言っているに拘《かか》わらず、自分は長火鉢の前へ御輿《みこし》を据えて、
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