には、同じ旗本のうちか、或いは大名の家よりするか、さもなき時はしかるべき仮親を立てるが定め、その辺は御承知でござりましょうな」
「それは……」
と言ってお絹は、ややあわてました。
「まだそれまでには運んでおらぬのでござりまする……」
 お絹が、それについてなお何かを弁明しようとする、その言葉の鼻を押えるように、能登守が、
「左様ならば取敢《とりあえ》ず、そのことをお取定《とりき》めあってしかるべく存じまする」
と言ってしまいましたから、お絹は二の矢が次《つ》げないようになりました。
「御親切のお心添えを有難く存じまする、よく主膳にも申し聞けました上で……」
 お絹はこう言って辞して帰るよりほかはありません。能登守の言い分は正当であるにしても、せっかく使者に来たお絹にその言い分が快い感じを与えることができませんでした。ましてやこれが神尾主膳の耳に伝わる時は、憎悪となり怨恨《えんこん》と変ずることは目に見えるのであります。

         八

 神尾主膳はその晩、一人で躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷を訪ねました。酔っているもののように足許がふらふらしています。
「机氏、机氏」
 いつも竜之助のいる屋敷へ、そのふらふらした足どりで入って来たけれども、そこに竜之助がいませんでした。
「竜之助殿、どこへ行った」
と言いながら、そこへドカリ坐ってしまい、それから酔眼を据《す》えて室内を見廻しました。
 例の通り、丸行燈《まるあんどん》に火が入っているにはいたけれども、それは今や消えなんとしているところであります。
「いやに暗い火だ、明るくない燈火《ともしび》だ、もっと明るくなれ、明るくなれ」
 主膳は燈火に向って、こんなことを言いました。その舌の縺《もつ》れ塩梅《あんばい》を見れば、かなりに酔っていることがわかります。
「誰もおらぬか、誰ぞ来い、あの燈火をもっと明るいように致せ、こんなにして燈心を掻《か》き立てるがよい、燈心を掻き立てさえ致せば、火はおのずと明るくなるのじゃ、早う致せ、誰もおらぬか、誰ぞ来い来い」
 怪しげな呂律《ろれつ》で取留まりもなく言いました。そうして酔っぱらい並みに頭をグタリと下げたり、怪しげな手つきをして、その手をすぐに膝の上へ持って来て、狛犬《こまいぬ》のような形をしたりしていました。
「うむ、よし、誰も来ないな、来なければこっちにも了見が
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