それと頷《うなず》くところのものがありましたが、
「どのような用向か知らん、わしは会いたくない、誰か会ってもらいたい」
会うことを多少迷惑がるようであります。
「それでも殿様に、直《じか》にお目通りを致さねば申し上げられないことなのだそうでございます。それがため、小島様も服部様も、わたしにお殿様へお取次ぎ申してみるように、お頼みでございました」
「はてな」
能登守は、その晴れやかな面《おもて》を少しく曇らせました。
「ともかく、あちらへお通し申しておくがよい、暫らくの間お待ち下さるようにお断わりをして」
「畏《かしこ》まりました」
「それから、お前は、わしの羽織だけをここへ持って来てくれるように」
「畏まりました」
お君は旨《むね》を受けてこの一間を出て行きました。能登守はその後で腕を組んで考え込んでいましたが、
「ははあ、そうじゃ、忘れていたわい、例の神尾が嫁を貰いたいということであろう、あの一件で例の婦人が出向いて来たものと見ゆるわい――筑前殿からも内談があったのだが、あれは、まだ拙者には解《げ》せぬことがある故に、なんとも返事をせずにおいた。事実、神尾があの縁組みを本気でするか、それとも一時の策略か、その辺を、もう少し確めてみぬことには……」
駒井能登守は、こんなことを思いつきました。そうして独言《ひとりごと》のように、
「しかし神尾は小人じゃ、まんいち拙者が故障を言えば、きっと拙者を恨むに違いない、恨まれるのは苦しくないが、何も知らぬ処女《おとめ》が、悪い計略に落ちるようじゃと気の毒の至り」
こんなことを胸に問い答えている時に、お君が羽織を入れた黒塗りの箱を捧げて来ました。能登守が筒袖の羽織の紐を解くと、お君はその後ろに廻りました。それを黒の紋付の羽織と着替えさせて、お君はその筒袖の羽織を畳みかけました。
能登守は着替えた羽織の紐を結ぶと、お君は、
「殿様、あの、お髪《ぐし》が乱れておいであそばしまする」
と言いました。
「うむ、それもそうじゃ」
お君は、筒袖の羽織を畳んでいた手を休めて、鏡台を卓子《テーブル》の上に立てました。その鏡は隅の棚の上に置かれてあった、これは洋式のものではなく、磨き上げた丸い鏡でありました。
お君はこうして能登守のために乱れた鬢《びん》の毛を撫でつけながら、その鏡にうつる殿様のお面《かお》を見ると、恥かしさで手先が
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