に、
「南条――南条」
と向うから呼びましたが、
「手を出せ」
「うむ、うむ」
 こちらの武士は、耳を着けていたところより一尺ばかり下の透間へ手を当てると、その透間からスーッと抜き取ったのは、柄《え》のない一挺の鑢《やすり》のようなものであります。
「これはどうしたのだ」
「今いう贋金遣《にせがねづか》いという男が、そっとおれにくれたのだ、同じやつがまだ一挺ある、鋸《のこぎり》と鑿《のみ》と小刀《こがたな》と三様に使える」
「エライものを手に入れたな」
「それこそ天の与え」
「有難い、有難い」
と言って、こちらの奇異なる武士は、その鑢《やすり》を推戴《おしいただ》きました。
 この時に牢番の小使が咳をしました。もう大抵、話すべき要領は尽きたと見えて、それを機会《しお》に話は切れてしまいました。
 牢屋の形式は厳重でありましたけれど、中の見廻りはさほど厳重なものではありません。
 牢番の小使の老爺《おやじ》に金をやって頼めば、大抵のものは調《ととの》えてくれます、羽目の間から物のやりとりや、小さな声で話をすることなどは、ほとんど自由です。
 宇津木兵馬は、ここへ囚《とら》われて来る時に金を持って来ませんでしたけれども、その後、誰ともなく金を差入れてくれるものがあると見え、その小づかいが二両三両と兵馬に手渡されます。それも五両差入れたものがあるとすれば、そのうち二三両ずつ、誰か頭を刎《は》ねる者があるらしくありました。
 誰が差入れてくれるのだか知らないけれど、兵馬はそれがために、大へんに便宜を得ました。望みの物を買ってもらうこともでき、同室の人に融通することもできました。多分、七兵衛の仕業《しわざ》でありましょう。
 その兵馬は不幸にして、このごろ熱に冒《おか》されています。そうして枕が上らないでいるのを、例の同室の奇異なる武士が介抱していました。この奇異なる武士は、兵馬よりは先にこの室に入れられていました。それと同室して語っているうちに、兵馬はこの奇異なる武士の奇なることを感ぜずにはいられません。

 今日は少し快《よ》かったから起きてみました。夜は早く床に就きましたが、よく眠れました。夜中になって、ふと妙な音が耳に入りましたから目を覚まして、音のする方を見て、我知らず身を起しました。兵馬は半身を起して、怪しげな音の耳ざわりになるところを見ると、同室の奇異なる武士が
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