終ってから市五郎は卑下《ひげ》と自慢とをこき交ぜて、自分がこの土地に長くいることだの、折助や人足、それらの間における自分の勢力が大したものであること、御支配をはじめ重役の間にて自分の信用が多大であるということ、そんなことを、それとなく言っているが、お松には聞き苦しいほどであるのに、お絹は上機嫌で、
「お松や、お政治向きのことは別にして、そのほかのことならこの人が何でも心得ているから、お前、何か頼みたいことがあるなら、遠慮なくこの人に片肌脱いでおもらい」
とまで言いました。
お松が自分の部屋へ帰った後も市五郎は、お絹の許を辞して帰る模様がありませんでした。しばらくたつと、その座敷が陽気になって、盃のやりとりにまで進んでいったようであります。根岸へ引籠った時分には一層慕わしく思われたお師匠様が甲府へ来ると、またがらりと変ったように思われるのがお松には浅ましい。誰とでも容易《たやす》く懇意になってしまって、ああして気を許すお師匠様の挙動がお松には歎かわしい。
六
甲府の牢屋は甲府城の東に方《あた》ってお濠と境町の通りを隔てて相対し、三方はお組屋敷で囲まれている。そのお組屋敷の東は御代官の陣屋になっているのであります。
宇津木兵馬の囚《とら》われているのは、その牢屋の中の一番室で、それは六畳敷でありました。その六畳の中には兵馬と、そのほかに一人の奇異なる武士が囚われています。
この室の中の南と北は格子であります。東と西は羽目《はめ》であります。
宇津木兵馬はその羽目の方の一隅に寝ています。もう夜が更けているから牢の中は真暗であります。兵馬は寝入っている様子だけれども、同室のもう一人の奇異なる武士は、まだ起きていて暗い中で何をかしているようです。
その武士は三十前後の歳で、総髪にして髪を結んで後ろへ下げています。
「うーん」
というて苦しげに呻《うな》るのは寝ている宇津木兵馬の声で、それと同時に寝返りを打とうとするらしい。
「宇津木、苦しいか」
奇異なる武士は声をひそめてこう言いますと、
「いや、別に」
と兵馬は、これも、ひそかに答えました。けれどもその返事は、苦しさを耐《こら》えている返事です。
「もう一服、飲んでみるか」
と言って奇異なる武士が、兵馬の枕許まで来て、蒲団《ふとん》の下を探ります。
「うーん」
と兵馬はまた苦しげに呻りまし
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