へ呼ばれたお銀様は、やがて自分の部屋へ帰って来ました。
 お銀様は、父から言い出されたことをだまって聞いて帰りました。父が言い出したことというのは、神尾主膳への縁談の一件でありました。お銀様はそれを聞いてなんとも返事をしませんでした。
 嘘《うそ》にも縁談のことは若い人の血汐《ちしお》を躍《おど》らせねばならぬものであります。けれどもお銀様にあっては必ずしもそうでありません。お銀様がだまって父の許から己《おの》が部屋へ帰ったのは、そのことの恥かしさから返事ができないで帰ったのではありません。
 いつも怒気を含んだようなお銀様の面《かお》が、一層の怒気で曇って見えました。父のものやわらかな話半ばで、ついと立って挨拶もなくて立ちかえったその畳ざわりは荒いものでありました。父の伊太夫は、
「ははあ、また失策《しくじ》った」
というような面をして、立って行く娘の後ろ姿を空《むな》しく見送っているばかりであります。
 お銀様が縁談を嫌うのは今に始まったことではありません。そのことを言い出されるのさえ、毒虫に触れることのようにいやがりました。お銀様は自分の身にかかる縁談のことを聞くのをいやがるばかりでなく、人の縁談のことを聞くのさえいやがりました。その話を聞くと、ジリジリと焦《じ》れてゆくのが目に見えるのであります。それだからお銀様の前で縁談を言うものはありません。お君も近ごろ来て、その呼吸をよく呑込んでおりました。父の伊太夫ももとよりそのことを知っていたけれども、市五郎の口前を信ずるの余りに、つい口に出してしまって、また娘の御機嫌を損ねたことに気がついて、気まずい思いをして空《むな》しく見送るばかりでありました。
 お銀様は縁談を持ち込まれることを、自分が侮辱されたように口惜しがります。それと共に自分に縁談を申し込んで来る男を、あくまで蔑《さげす》むのでありました。自分に縁談を申し込んで来るような男は、男のなかのいちばん意気地なしで恥知らずで、あるものは慾ばかりで人格も趣味もあったものではない、男のなかの屑《くず》だと、口に出してまでそう言うことがありましたくらいであります。
 今、神尾主膳のことを聞いても、まずその蔑みで頭を占領されてしまって、これから父が説き出そうとすることを、受入れる余裕はありませんでした。
 お銀様は凄《すご》い面をして自分の部屋へ帰って来て、
「お君
前へ 次へ
全95ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング