ようなお沙汰のあったことをお聞き申しませぬ故に……」
「ナニ、それを聞かぬ? では、わしがお前の身の上について、伊太夫へ頼んでやったことが、お前の方へは取次がれんのじゃな」
「はい、どのような御沙汰でございましたか……」
「それは不審」
能登守は美しい面《おもて》を少しく曇らせました。お君はハラハラとした気持が休まりませんでした。やがて能登守はこう言いました。
「ほかではない、わしのところはこの通り女手のない家、それ故に伊太夫の方でさしつかえのない限り、お前にわしの家へ来て働いてもらいたいがどうじゃと、家来をして申し入れたはず、それを伊太夫が断わって来た」
「まあ、そんな有難い御沙汰を……どうして旦那様が」
お君は当惑に堪えないのであります。御支配様からの御沙汰をお請《う》けをするとしないとに拘《かかわ》らず、左様な御沙汰があったならば、一応は自分のところへお話がなければならないはずだと思いました。いくら主人だといっても、自分の身の上の御沙汰を、途中で支えてしまうというのは道理のないことだと思いました。さりとて、あの大家の旦那様が左様なことをなさるはずもなし……その時、はたと思い当ったのはお銀様のことであります。あ、それではお銀様の仕業《しわざ》と、すぐにこう感づいてしまいました。
殿様から御沙汰があると、旦那様は必ずお銀様へその御沙汰のお伝えがあったに違いない、それをお銀様が、あの気性で、わたしに話なしに御一存でお断わりなすってしまったに違いないと、お君はすぐにそう感づいてみると、お銀様に言われた言葉がいちいち思い当るのであります。お前が行けば殿様は喜んでお会い下さると、お銀様が断言したこと、そこに何かの確信があるような言いぶりがお君によく思い合わされると共に、殿様はお前を好いている……と言ったお銀様の言葉、薔薇《ばら》のような甘い香と鋭い棘《とげ》とが、ふたつながら含まれていたのも漸くわかってくると、お君は我知らずポーッと上気してまたも面《かお》が真赤になりました。そうして、お銀様の仕打ちが憎らしくなってたまりませんでした。
「わたくしは初めて承りました、殿様からそのようなお沙汰のありましたことを、わたしは今まで存じませんでございました」
お君は自分の冤罪《えんざい》を申し開きするような態度でこう言いました。
お君が、自分の冤罪を主張するように熱心にな
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