て前の子供の泣く声が異なった方向で、町から町を筋を引いて歩くように聞え出します。
「危ないものだ、子供を背負うて夜中にああして歩いている、さだめて女房に死なれて、気が狂うたものと見ゆる」
「それに違いない。しかし、このごろのように物騒な時に、ああしてこの夜中を歩くのは、薪を背負って火の中へ駈け込むのと同じことじゃ、怪我《けが》がなければよいが」
「ここへ来れば取押えて家まで連れ戻してやろうものを、向うへ行ってしまったから仕方がない」
「あの男のことばかりではない、我々もまた用心せんと……」
彼等はこう言って、また歩き出しました。もとよりこの一組の少年たちのうちにも、勇なるものと怯《きょう》なるものとがあります。けれどもこうかたまってみれば、勇なる者にも守る心が出来、怯なるものは勇なる者に同化され、勇怯合せて一丸となった別の心持に支配されるのであります。
例の子供の泣く声が糸を引いたようにして絶えることしばし。その時、忽然《こつぜん》として耳を貫く物の響が起りました。物の響といううちに、やっぱりそれは活《い》ける物のなせる声でありましたけれど、前のとは違って人の腸《はらわた》にピリピリと徹《こた》えるような勇敢にして凄烈《せいれつ》なる叫びでありました。
「や、あの声は?」
「狼ではないか」
「熊ではあるまいか」
少年たちはまたも足をとどめたが、その吠《ほ》え落す声をじっと聞きとめて、
「やっぱり、犬のようじゃ」
いま吠え出したそれはまさに犬の声であります。犬の声ではありましたけれども、尋常の犬の声とは思われません。
それはさておいて、このおっそろしい[#「おっそろしい」に傍点]闇と靄の晩にも泰平無事なのは、甲府のお牢屋の番人の老爺《おやじ》であります。
小使の老爺は貰いがたくさんあります。牢の中にいても金を持っている奴は、小使に頼んでいろいろの物を買ってもらうことができる。最初に持っていた金は役人のところへ取り上げられて、必要に応じて少しずつ下げ渡される制度であったが、その少しずつ下げ渡された金で、小使の老爺に頼んで、内々でいろいろの物を買い調《ととの》えるのであります。
生姜《しょうが》や日光蕃椒《にっこうとうがらし》を買ってもらうものもあります。紙の将棋盤と駒を買ってもらって勝負を楽しむものもあります。武鑑を買ってもらって読むものもありました。お菜
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