、また御別宅の方においでなさるともいうのですが、その辺が永年御奉公をしていて、わたしたちにはさっぱりわかりませんの。けれども今の奥様が二度目の奥様で、旦那様よりズットお若い方だなんて、女中たちの中では噂をしているものもあります。なんでも二度目か三度目の奥様に違いないので、あの三郎様やお嬢様の産《う》みのお母さんではないのですね。なんだか変に、こんがらがっていて、とても、こんな大家の財産《しんしょう》と内幕は、わたしたちの頭では算段が附きません。ただおかわいそうなのはあのお嬢様でございますね、あのお方はほんとうにおかわいそうなお方でございますよ」
「お嬢様が……」
 どうしても話は、例のお嬢様のところへ落ちて行かねばならなくなりました。
 お君が知らないと思って、この女中は、お嬢様のことについてはかなりくわしくお君に話して聞かせました。お嬢様の名はお銀様ということ。それはそれは怖ろしいお面《かお》、と言う時にお藤自身もゾッとして四辺《あたり》を見廻し、お君もあの時の面が眼の前に現われて身の毛が竦《よだ》ちました。なおこの女の語るところによれば、お嬢様のあんなお面になったのは、ただに疱瘡《ほうそう》のためばかりではない、それより前に大きな火傷《やけど》をしたのがああなったのだということでありました。誰かお嬢様にあんな火傷をさせた者があるのだというような口ぶりでありました。
 してみれば、天然の病気と人間の手とふたりがかりで、あのお嬢様という人の面を蹂躙《じゅうりん》してしまったことになる。なんという惨《むご》たらしい報いであろうと、お君は、どうしてもそのお嬢様のために心から同情しないわけにはゆきませんでした。
「これほどのお大尽でも、あればかりはどうすることもできませんね。それだからお君さんのような容貌《きりょう》よしに生れついた者は、お金で買えない幸福《しあわせ》を持っているわけですから、大切にしなくてはいけませんよ」
とお藤はお君に向ってこう言いました。野菜類を洗ってしまってから、お君はムクに食物をやろうとしました。
 ところが、いつもその時刻には来ているムクが見えませんから、お君は牧場へ出て、遠く眼の届く限りを見渡しました。しかしそこにもムクの姿が見られません。思うに群犬を率いて興に乗じて、あの山の後ろの方まで遠征して行ったものだろうと、お君は強《し》いては心配しませんでした。
 この機会に少し牧場の状態でも見ておこうかと、お君はムクを尋ねながらに牧場の方へと歩んで行きました。
 今、お君の頭の中では、ムクのことよりも一層、あのお嬢様のことが考えられてたまりませんでした。お君は自分ほど不幸なものはこの世にないと思っていた一人でした。ほとんど幸福というものを持たずに生れて、不幸という浪の中にのみ揉《も》まれて来たのが自分のこれまでの生涯だと思いました。それを今、あのお嬢様と比べて見れば、自分の方が確かに幸福者《しあわせもの》であると言われて、なるほどそうかと思わねばならないことほど無惨《むざん》に感じたのであります。
 病気をしたことのない者には、壮健《たっしゃ》で無事でいることの有難味がわからない。ともかくも、人並に生れついたということの有難味が、この時お君にわかってきて、自分ほど不幸な者はこの世にないと思っていた心は、僻《ひが》みであったり我儘《わがまま》であったりしたのではないかとさえ思われました。百万長者の娘に生れたことが、この時にはお君にとって少しも羨望《せんぼう》ではありませんでした。そうしてこの気の毒なお嬢様の身の上に心の中で同情をしながら牧場を歩いて行くうちに、ついつい、お嬢様のお家のあるところだという欅《けやき》の林に近いところまで来てしまいました。もう冬と言ってもよいくらいですから欅の紅葉は、ほとんど八《やつ》ヶ岳颪《たけおろし》で吹き払われていました。木の下には黒くなった落葉が堆《うずたか》く落ちていました。そこへ来てお君は、ここがあのお嬢様のお家であると思って、そっと大きな欅の蔭から垣根の中をのぞいて見ました。
 そこにまた庭があって、池や泉水や築山《つきやま》があるのが見えました。そうして縁のところに一人の男の人が腰をかけている様子であります。
「幸内、幸内」
と座敷で呼ぶのは、あのお嬢様の声。呼ばれて、縁に腰をかけているのは、自分を助けて来てくれた若い馬商人。お嬢様の方の姿は座敷の中にいて見えませんけれど、幸内の姿は垣根越しによく見ることができました。
「幸内や、お前に貸して上げるには上げるけれど、お父様に話してはいけません」
「どう致しまして、旦那様のお耳に入りますれば、お嬢様よりは、わたしがどんなに叱られるか知れません」
「では大事に持っておいで。そうして三日たったらきっと返してくれるだろうね」
「それはもう間違いはございません」
「刀や脇差は幾本も幾本もあるのだけれど、この一腰《ひとこし》はお父様が、わけても大事にしておいでなのだから」
「それは、もうよく存じておりまする、三日たてば間違いなくお返し申しまする」
 幸内の前へお銀様は、手ずから長い桐の箱をさしおきました。
「これはどうも有難う存じます、お嬢様のおかげで日頃の望みが叶いまして、こんな嬉しいことはござりませぬ」
 幸内は箱の上へお辞儀をしました。
「幸内」
「はい」
「お前がこの間つれて来た、あの娘《こ》はどうしています」
「へい、あれはおばさんに願ってお屋敷へ御奉公を致すようになりました」
「あれはお前、お前が前から知っていた子ではないの」
「いいえ、そんなことはございませぬ」
「では、あの山で初めて会ったのかい」
「左様でござります」
「その後、お前はあの娘と口を利きましたか」
「いいえ、あれからまだ会いませんでございます」
「あの娘は容貌《きりょう》がよい子でしたね」
「どうでございましたか」
「あんなことを言っている、あの娘は綺麗《きれい》な子であったわいな」
「面《かお》つきは、そんなでございましたか知ら。何しろ行倒れのような姿でございましたから、見る影はありませんでした」
「姿はやつれていたけれど、ほんとに容貌美《きりょうよ》し、よく作ってやりたい」
「一寸見《ちょっとみ》はよく見えても、作ってみると駄目なんでございましょう」
「いいえ、かまわないでおいてあのくらいだから、お作りをしたら、どのくらいよくなるか知れない、わたしは着物を持っている、髪の飾りも持っている、貸してやりたい」
「お嬢様のそのお言葉をお聞かせ申したら、さだめて有難く思うことでございましょう、あの娘はほんの着のみ着のままで道に倒れていたのでございますから」
「わたしの物をそっくり遣《や》ってしまいたい、わたしなんぞこそ着のみ着のままでいいのだから」
「お嬢様、何をおっしゃいます」
「ほほほ、わたしとしたことが、また我儘なことを言ってしまいました。幸内や、それでよいからお前は早くそれを持っておいで、誰かに見られると悪いから。見られてもかまわないけれど……」
「それではお嬢様、お借り申して参りまする、三日目には必ず持って参りますでございます」
 幸内は頭を下げて、その長い桐の箱を風呂敷に包んで暇乞《いとまご》いをしました。
「お前、帰りがけに、あの娘のところへ行って、あの娘に、わたしのところへ遊びに来るように、と言っておくれ」
「はい、畏《かしこ》まりました」
 そう言って幸内は、長い桐の箱を小脇にして縁側を離れました。その桐の箱の中にはこのお嬢様の父なる人の、秘蔵の刀が入っているということが話の模様で推察されます。
 お君が女中部屋へ帰って針仕事をしている時分に、ポツリポツリと雨が降り出してきました。
「こんにちは」
 内にいたお君は、それが幸内の声であることを直ぐに覚《さと》りました。実はもう少し早く幸内がお嬢様の言伝《ことづて》を持って来るだろうと、心待ちにしていないわけでもありませんでした。
「どなた」
 それと知りつつもお君は障子をあけると、
「私」
「これは幸内さん、よくおいでなさいました」
 見ると幸内は、こざっぱりした袷《あわせ》に小紋の羽織を引っかけて傘をさして、小脇には例の風呂敷包の長い箱をかかえて、他行《よそゆき》のなり[#「なり」に傍点]をしていました。
「さあ、どうぞお入りなさいまし」
 お君は愛想よく迎えました。
「わしはこれから、ちと他《よそ》へ行かねばなりませぬ。あの、お君さん、お嬢様がお前さんに会いたいから、手がすいたら遊びに来るようにとお言伝《ことづて》でござんすよ」
「お嬢様から?」
「あい」
「畏まりました、有難うございます」
 お君は幸内のお使御苦労にお礼を言いましたが、幸内はそれだけの言伝をしておいてここを出かけて行きました。
 お君は暫らく幸内の行くあとを見送っていますと、
「お君さん」
 朋輩女中のお藤が後ろから呼びかけました。
「お藤さん」
 お君はそれを振返ると、お藤は、
「まあよかったことね、お君さん、お嬢様から招《よ》ばれてよかったことね」
「でも、わたし何かお叱りを受けるのじゃないか知ら」
「そんなことがありますものか、お嬢様はよくよくのお気に入りでないと、こっちから何か申し上げてもお返事もなさらないの、それをお嬢様の方からお招《よ》び出しがあるのだから、お君さん、お前はきっとお嬢様のお気に召したことがあるんだよ」
「そうだとよいけれど、わたしは何かお叱りを受けるんじゃないかと思って」
「そんなことはありませんよ、わたしたちはこうして永いこと御奉公をしているけれど、まだお嬢様から、遊びにおいでとお迎えを受けた者は一人もありませんよ、それだのにお前さんばかり、そんなお沙汰があったのだから、ほんとうに羨《うらや》ましいこと」
「あの、お嬢様はお気むずかしい方ではありませんか」
「いいえ、あれでなかなか察しがあって、よく行届くお方ですけれど、好きと嫌いが大変お強くていらっしゃる、このお屋敷でも、幸内さんのほかにはお嬢様のお気に入りといってはないのですよ」
「幸内さんは、そんなにお嬢様のお気に入りなんですか」
「ええ、幸内さんの言うことなら、お嬢様は大抵のことはお聞きなさいます、だから人が幸内さんとお嬢様とおかしいなんぞと蔭口を利きますけれど、まさかそんなことはありゃしませんよ」
 まだあけていた障子の間から外を見ると、笠をかぶって包みをかかえた幸内が、ちょうど、いつぞや入って来た時に、お嬢様と会った小橋の上を渡って行く後ろ影が見えました。

         三

 お君はお銀様の居間へ上りました。
「お前のお国はどこ」
「伊勢の国でございます」
「伊勢の国はどこ」
「古市でございます」
「古市と言やるは、あの大神宮のおありなさるところ?」
「左様でございます、大神宮様のお膝元《ひざもと》でございます」
「そこで何をしていました」
「あの……」
 お君がちょっと返事に困ったところへ、不意に庭先へ真黒な動物が現われました。それはムクでありました。
「ムクや、こんなところへ来てはいけません、ここはお前の来るところではありません」
と言ってお君は、お銀様の手前、ムクの無躾《ぶしつけ》なのを叱りました。
「これはお前の犬なの」
「はい、わたくしの犬なのでございます」
「まあ大きい犬」
「わたしのあとを少しも離れないので力になることもありますが、困ってしまうこともあるのでございます。さあ、早くあっちへ行っておいで」
「そんなに言わなくてもよい、主人のあとを追うのはあたりまえだからそうしてお置き」
「それでも、こんなところへ、失礼でございます」
「そうしてお置き」
 ムクは許されたともないのに庭先へ坐ってしまいました。
「温和《おとな》しくしておいで」
 お君もぜひなく、そのうえ追い立てることをしませんでした。
「このお菓子を食べさせておやり」
「こんな結構なお菓子を、勿体《もったい》のうございます」
 お君はそれを辞退しました。お銀様は別段に強《し》いるでもありません。
「今日は雨が降って淋しいか
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