りません」
「旦那様は、滅多に外へおいでになりませんけれど、どうかするとこの牧場《まきば》へお伴《とも》を連れて出ておいでなさることがありますよ」
「お年はお幾つぐらいでございます」
「もう、いいお年でしょうよ、あの三郎様や、お嬢様の親御さんですから」
「三郎様とおっしゃるのは?」
「こちらの総領のお方、この馬大尽のおあとを取る方なのよ」
「それから奥様は?」
「奥様には、わたしまだお目にかかったことがありません」
と女中のお藤が言いました。
 その家の女中でいて奥様を知らないということは、お君の耳には奇異に聞えました。
「わたしが奥様のお面《かお》を知らないばかりでなく、うちの女中で、誰でもまだ奥様にお目にかかった者は無いのですよ。取締りのお婆さんだって、奥様を知っているか知っていないか、あのお婆さんだけは、知っているには知っているでしょうけれど、それも知らないような面をしていますよ」
「それはどういうわけなのでございます、奥様は御別宅の方にでもいらっしゃるのですか」
「どういうわけだか、ほんとに、そう申してはなんですけれど変なお屋敷でございますよ。奥様はこちらにおいでなさるとも言い
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