《おどか》されたものか、或いは他の斬られたのを見て、自分が斬られたと思ったのか。小林は脇差の鯉口《こいぐち》を切りながら、外の闇へ飛んで出ました。
「爺《とっ》さん、しっかりしなくちゃいけねえ」
 そのあとで米友が鍋焼饂飩の介抱《かいほう》に廻りました。
 鍋焼饂飩は、やっと回復したけれども、まだ生きた空はありません。
「いったい、こりゃどうしたんだい」
と言って尋ねてみましたけれど、その返事がいっこう纏《まと》まりがありません。ただ、鍋焼饂飩《なべやきうどん》をお客に喰わせていると、松の蔭から黒い人影が現われて、そのお客もひっくり返ったが自分も無暗《むやみ》にここへ逃げ込んだというだけの要領でありました。そのお客がどんな人であったか、またその物蔭から出た黒い人影が、どんな形であったか、そんなことはまるっきり要領を得ないから、米友は笑止《おかし》がって鍋焼饂飩に力をつけてやり、お茶を飲ませたり、壊《こわ》れた道具を片附けたりしてやりました。鍋焼饂飩は、まだ歯の根も合わないで、慄《ふる》えながら始末をしているところへ、
「ああ、危ねえ、危ねえ」
と言いながら、またもそこへ入って来たのは風合羽《かざがっぱ》を着た旅の男。
「兄さん、すんでのことに、命拾いをして来たよ」
 笠を取ったその人は七兵衛でありました。
「やあ、お前様はさいぜんのお客様」
と鍋焼饂飩が叫びました。
「爺《とっ》さん、飛んだ迷惑をかけちまった、それでもまあ、おたがいに命拾いをしてよかったね」
と言って七兵衛は鍋焼うどんを慰めました。
「でもまあ、命拾いをしたにはしましたがねえ」
と鍋焼饂飩は諦《あきら》めたような、諦められないような返事をして、恨めしそうに壊れた商売道具を見ています。
「商売道具がこわれたね、爺《とっ》さん、俺が立替えるよ」
 七兵衛はかなり重味のある財布を首から外して、鍋焼うどんの屋台の上へ投げ出しました。
「こんなにいただいちゃあ、こんなにいただいちゃあ済みませんねえ」
と言って鍋焼饂飩は恐縮してしまいました。それには拘《かか》わらず七兵衛は上《あが》り端《はな》へ腰をかけて、
「やれやれ、こうして俺たちは命からがら逃げて来たのに、また物好きな人もあればあるもので、わざわざ斬られにあとを追蒐《おっか》けて行った人があるようだが、友さん、どうだい、ひとつその槍を担《かつ》いで様子を
前へ 次へ
全53ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング