。
駒井能登守が手紙を書き終ったところへ、お絹から言いつけられた通りにお松がお茶を捧げて入って来ました。
「御免あそばしませ」
「これはこれは」
と能登守は言いました。
能登守は風呂に入る前に、書類や手紙の用を済ましてしまうのが例であります。お松がお茶を捧げて来たのはちょうどよい折でありました。
能登守は、お茶を捧げて来たお松の様子を見ると、どうもこの宿あたりにいる女中とは思われないから、
「そなたは、この家の娘御《むすめご》か」
と言って尋ねてみました。
「さきほどは伯母が上りましてお目通りを致しました」
「あ、左様であったか」
宿を周旋してやったためにお礼に来たさきほどの女、この娘はその連《つれ》か、そうしてさきほどの女が気を利かして、この娘にお茶を持たしてよこしたのだろうと思い当りました。
「何ぞ、御用がござりましたなら、仰《おお》せつけ下さるようにとの伯母の申しつけでござりまする」
と言って、お松は能登守の前に指を突きました。
「それは御親切ありがたいが、別に用事といって……」
能登守はちょうど眼を落したのが、いま書いていた手紙であります。せっかくのことに、
「大儀ながらこの手紙を、明朝の飛脚で江戸へ届けてもらうように、この宿の主人へ手渡し下されたい」
と言って、その手紙を拾ってお松に渡しました。
「畏《かしこ》まりました」
「あの先刻の婦人は、そなたの伯母でありましたか」
「はい」
「よろしく申して下されよ」
お松はこうしてお茶を捧げて来て、手紙を持って能登守の許をさがる時に、まことに好い殿様だと思いました。怖《こわ》いお役人様のお頭《かしら》であろうと思って来たのに、打って変って優《やさ》しく思いやりがありそうで、そうかと言ってニヤけた御人体《ごにんてい》は少しもなく、気品の勝《すぐ》れていることを何となく奥床《おくゆか》しく感じてしまいました。
お絹はお松が能登守から頼まれたという手紙を自分が受取って、お松に向っては、
「今、殿様がお風呂においであそばしたようだから、お前は行ってお世話を申し上げて下さい、失礼のないように」
と言いつけました。
お松はその言いつけをも、温和《おとな》しく聞いて風呂場の方へ行きました。そのあとでお絹は能登守の手紙を手に取ってつくづくと眺めていました。表には「江戸麹町二番地、駒井能登守内へ」と立派な手蹟で認《したた》めてあります。
それを見ると、お絹はまたむらむらと変な心が起りました。この手紙は能登守からその可愛い奥方に送る手紙だと感づいてみると、お絹の心が穏やかでありません。能登守の奥方にはまだお目にかかったことはないけれど、能登守があの通り若くて綺麗な人だから、奥方もまた若くて美しい人に違いないとは誰でも想像されることであります。そういうことにはことに敏感なこの女は、あんまり人をばかにしているとこう思いました。お安くない夫婦の間の音信をこのわたしたちに見せつける能登守の仕打《しうち》を憎いと思いました。能登守のような若い殿様に可愛がられる奥方は、どんな人か面《かお》が見てやりたいように思いました。自分たちにそういう心を起させようがために、お松に頼まないでもよい手紙をワザと持たしてよこして、これ見よがしに見せびらかすのではないか。
これは能登守にとっては非常に迷惑な邪推であります。
「よしよし、そういうわけならばこの手紙の中を見てやりましょう。どんな憎らしいことが書いてあるか見てやりましょう、ほんとに癪《しゃく》に触るから見てやりましょう」
お絹もそれほど悪い女ではないけれど、情事にかけると、いつも好奇心がいたずらをします。そのいたずらが、暗い中でうごめき出すのを抑えきれないという悪い癖がありました。
それでも女のことで、荒らかに封を切るということはなく、楊枝《ようじ》の先で克明《こくめい》に封じ目をほどいて、手紙の中の文言《もんごん》を読んでみると、それがいよいよいやな感じを起させてしまいました。
この手紙の中は夫婦間の美しい消息を以て満たされている。遠く旅に行く夫の心と、病んで家に残る妻の心との床しい思いやりが溢れています。その美しい消息と床しい思いやりとが、お絹の心持をさんざんに悪くしてしまいました。
人の手紙というものは、見るべきものでも見せるべきものでもないのに、それを盗んで見るということはこの上もない卑劣なことで、お絹もそこまで堕落した女ではなかったのだけれど、好奇《ものずき》から出立して、我を失うようになるのは浅ましいことであります。
その手紙を読んでしまったあとでお絹は、ついにその筆蹟をうつすというところまで進んで来ました。駒井能登守の筆蹟を透《す》きうつしにして取ってしまいました。これはどういうつもりか知らん。さすがにそれからあとを破り
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