の小湊《こみなと》へ行く道にお仙転《せんころ》がしというのがあるが、ここには座頭転がしというのがある、座頭転がしとはなにか由緒《ゆいしょ》がありそうな名じゃ、どういうわけで、そんな名前がついたのだ」
 本陣の主人が答えて、
「ただ山の中腹に開《あ》いてありまする路が、羊の腸《はらわた》みたようにうねっておりますから、煙草の火の借り合いができるほどのところへ行くにも廻り廻って行かねばなりません。或る時、二人の座頭が、この道を通りまする時、おたがいに言葉をかけ合って参りましたが、途中で後ろの者が『オーイ』と申します、前のものが『オーイ』と返事をします、近いところに聞えたものですから、真直ぐに行くと谷へ落ちて死んでしまいました。それで座頭転がしというのだそうでございます」
「この街道は道が嶮《けわ》しいばかりでなく、人気などもなかなか荒いようじゃ」
「人気はなかなか荒いそうでございます、どうも郡内者といって、旅の者が怖れておいでなさるそうでございますが、住んでいますれば、やっぱり同じ人間でございますから、そんなに荒っぽいとも存じません、頼むとあとへ引かないといったような片意地のところもございまして、附合い様一つでございます」
「この鳥沢に粂《くめ》という者があるか。鳥沢の粂といって、この界隈《かいわい》に知られた男があるそうな」
「へえ、鳥沢の粂、そんな者があるにはあるんでございますが、お話を申し上げるような人体《にんてい》ではございません」
と言って、主人は鳥沢の粂のことをあんまり話したがらない。風景があったり名物が出たりすることは多少にも自慢にもなるけれど、あんな人間の存在することはあまり名誉とも思わないらしくて、粂のことは問われても語らずに、
「なんしてもこの通りの山の中でございますから、景色と申しても名物と申しても知れたものでございますが、そのうちでも甲斐絹《かいき》と猿橋《さるはし》、これがまあ、かなり日本中へ知れ渡ったものでござりまする」
「そうだ、猿橋と甲斐絹の名は知らぬ者はあるまい、その猿橋ももう近くなったはず」
「これから、ほんの僅かでございます、そんなに大きな橋ではございませんが、組立てが変っておりますから、日本の三奇橋の一つだなんぞと言われておりまする。猿橋から大月、大月には岩殿山《いわとのさん》の城あとがございまして、富士へおいでになるにはそこから
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