方がよいそうじゃ」
能登守はこう言った。なるほど、いちばん疲れない能登守がいちばん喋《しゃべ》らなかった。
「無言で気息を調《ととの》えて歩けばよろしかろうけれど、そこが旅は道づれで、いろいろの話をして歩きたいのが凡夫の常だ。よしよし、今度は無言の行を続ける」
とにかく、中の茶屋で休んで、赤飯などを噛《かじ》っていると、誰も彼も疲れなんどは一時に忘れてしまいました。その元気で茶屋を立って下りにかかりましたが、上りに懲《こ》りて無言の行を続けると言った肥満の与力は、渋面《じゅうめん》を作って口を噤《つぐ》んで歩きましたが、それにひきかえて能登守が今度はいろいろの話をやり出しました。街道筋の地勢や要害を指さしながら、土地案内の与力同心に聞いてみたり、自分の意見を述べてみたりしました。時々|諧謔《かいぎゃく》を弄して一行を笑わせたりしました。それで話の花が咲いて、登りの時より一層賑やかになりました。強《し》いて口を噤んでいた与力の連中もまた談話中の人となって、疲れた足を引きずりながら、息をはずませて気焔を上げていました。
山腹の左の方から渓水《たにみず》が湧き出て滝のように流れています。それが深い谷に落ちて淵《ふち》になったり、また岩に激して流れ出したりする変化が面白い。その渓水を幾十曲りもして見ると、向うに二軒の茅屋《あばらや》が見える。その前に板橋があって、渓水がそこへ来て逆に流れている景色がなかなか面白いから、一行はそこで暫らく立って景色を見ていました。すると駒井能登守が、
「あれ見よ、あの家の後ろを怪しげな男が通るわ」
と言いました。一同は谷川の景色ばかり見ていたのでしたが、能登守にこう言われて、前の山の二軒の茅屋のところに眼をうつすと、そこを一人の旅人が急速力で、サッサと歩いて行くのを認めます。菅笠《すげがさ》を被って道中差《どうちゅうざし》を差して、足ごしらえをしてキリリとした扮装《いでたち》で、向う岸の茅屋の後ろを飛ぶが如くに歩いて行きます。
「あれは何者だ、足の早い奴」
と驚いていると、能登守が、
「いかにも怪しげな奴じゃ、関所の裏を通ったものと見ゆる、誰ぞ行って追蒐《おいか》けてみられよ」
「心得ました」
同心が二人、板橋を渡って向う岸へと飛んで行きました。
怪しげな旅の男はそれを知って、山の中へ逃げ込んで、かいくれ姿を隠したから、追いかけて行
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