絹はその抽斗の中を選《え》り分《わ》けて一枚の借用証文を引き出しました。この証文は、お角が甲府へ旅興行に行く前に、仕込金として、忠作から借りて行った金の証文であります。
「お松や」
お絹は証文の皺《しわ》を伸ばしながらお松を呼びました。
「はい」
「わたしが今お客様と話をしていますから、もしお茶をと言った時分に、お前はお茶を入れて持って来て下さい。お客様は、お前の面《かお》を見ると何か言い出すかも知れないが、お前は心配しないで、お茶を出したらば直ぐに奥へ入っておしまい」
こう言ってお絹はとりすまして客間へ立って行きました。
「お初《はつ》にお目にかかりまして」
お絹とお角と両女《ふたり》の挨拶《あいさつ》があってから、お角が改めて、
「さきほどお目にかけましたお手紙、どうやらお門違いとも思われませんのに、御様子がおわかりにならないそうでございましたから、押してお目通りをお願い申しました」
「道庵さんは始終《しょっちゅう》懇意《こんい》に致しておりますけれど、あの娘さんがどうしたことやら、文面が何のことやら、のみこめませんものですから」
「あの道庵先生から、当家様へ二三日お預かりを願いました娘さんのことでございますが、その親許《おやもと》が今日見えまして、連れて帰りたいということでございますから、さっそく道庵先生へお話を致しますると、先生は当家様へお頼み申してあるとおっしゃって、おれが直《じき》に連れて来てやると御自身でお出かけになるところを、なにしろあの通り御酒《ごしゅ》を召していらしって、お足元がお危のうございますから、それには及びませぬ、お手紙でもいただきますれば、私共の方からお迎えに上りますからと申しますと先生が、よしよしとおっしゃって書いて下すったのがあのお手紙でございます」
「それは変なことでございますね、私共では、先生から娘さんとやらを預かったような覚えは一向にありませんのですが」
「おやおや、それでは道庵先生が何か勘違いをなすったのではございますまいか」
「あの先生のことだから、何かいたずらをしてお前さんたちをかついだのかも知れません」
「ほかのことと違いまして人一人のことでございますから、そんな罪ないたずら[#「いたずら」に傍点]をなさる先生でもございますまいし」
「なにしろ、わたくしどもでは、道庵先生から小猫一匹でもお預かり申した覚えはございませんから」
「それは困ったことになりました、あの先生に限って、酔っぱらっておいでになっても、信用の置けることには置ける先生だとばかり思って安心して上りましたのに」
「どうもお気の毒に存じます、もう一度先生の方を確めてごらんなさいませ」
「そういうことに致しましょう。これはどうも飛んだ失礼を致しました、そそっかしいことでお恥かしうございます、幾重《いくえ》にもお許し下さいまし」
お角は当惑してしまったから、お絹に向って自分のそそうを詫びました。
「まあよろしうございます、お茶を一つ召上れ」
お絹がお茶を一つと言った時に、何も知らないお松はお茶を立ててこの場へ持って出ました。お角は今お詫びをして帰ろうとするところへお松が入って来たものだから、思わずその面《かお》をじっと見て、
「おや、このお娘さんは……」
お角が驚いて膝を立て直すのを見て、お絹は莞爾《にっこり》と笑いました。
お松は何のことだかわかりませんで、ただこの女のお客が自分を見て仰々《ぎょうぎょう》しい表情をしたことを、少しくおかしく思いながら、
「おいであそばせ」
一礼をして出て行こうとする時、お角の言葉つきがガラリと変って、
「奥様、おからかい[#「おからかい」に傍点]なすってはいけませんよ、女のことでございますから怯《おび》えますよ」
膝を立て直したお角の挙動を、ますます怪しいことに思いながらお松はお茶を出して、次の間へ立去ってしまいました。それを流し目でお角は見送りながら、
「奥様、お前様は、女の子はおろか、猫一匹も道庵先生からお預かり申した覚えはないとおっしゃいましたね。そんなことだろうと思いました。危ないこと、子供の使いで追い返されて、こっちからは赤い舌を出され、向うでは笑い物にされるところでしたよ」
お角は坐り込んで、ことわりもなしにお絹の煙管《きせる》を借りて煙草を一ぷくつけた時に、お絹はさいぜんの証文を取り出しました。
「お前さんには、あの女の子より先にお預かり申した品があるから、それをお返し申してからの話にしようと思いました」
お絹はその証文をお角の前に置くと、お角は不審な面《かお》をして煙管を投げ出し、証文を取り上げて披《ひら》いて見ました。
「おやおや、こんな品物が奥様の方に廻っていようとは存じませんでした。エエよろしうございますとも、お借り申したものは決してお借り
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