》の金子六左衛門」
大きいのが答えると、低い方のが、
「拙者は堤作右衛門」
上の山の金子六左衛門は六左衛門で通る人でありました。六左衛門というよりも、その一名与三郎の方が通りがよかったこともあります。さきに新徴組が清川八郎を覘《ねら》う時、しばしばその金子の家で会合したことがあります。金子は新徴組の連中と交わりがよかったばかりでなく、そのころ聞えたる各藩士及び志士とはたいてい往来していました。その主張するところは幕府を佐《たす》けて尊王の志を成さんとするのであります。朝廷と幕府との間の調和をはかるがためには、非常に働いた人でありました。藩内では家老であり、その時代には一種の志士として畏敬《いけい》されていたのであったから、荘内藩の巡邏隊はそれを聞いて、やや意を安んずるところあって、
「これはこれは、上の山の金子殿でござったか、それとは知らず失礼を致しました。我々は白金屯所の荘内藩巡邏隊、拙者は伍長の斎藤角助と申す者」
と名乗りました。
そこで斎藤角助は隊士に、槍と鉄砲を引かせ、
「この邸内が物騒がしいようでござるが……」
「いかにも。ただいま怪しい奴が忍び込んで、女を一人奪って逃げたと申すこと」
「女を奪って逃げた? それは聞捨てならぬこと」
「あの土塀を乗り越えて逃げたとやらだが、まだ遠くへは行くまいと思われる」
「諸君、追蒐《おっか》けて見給え」
それはやり過ごしてしまって金子六左衛門は、先に立って歩きながら堤作右衛門を顧みて、
「一網打尽《いちもうだじん》にやってしまわねばいかぬわい」
という。堤はそれに答えて、
「いかにも。思いのほか念が入《い》った仕方でござるな」
「不届きなやつらじゃ、誰か大きな頭があって指図をしているのに違いない、中の様子はまるで要塞だ。いざと言えば幕府の兵を引受けて防戦する覚悟でいるから、まず謀叛《むほん》と見ても差支えない」
「お膝元を怖れぬ振舞《ふるまい》じゃ。もし大きな頭があって、その指図とあらば、このままに置くは幕府の威信にかかわる」
六左衛門と作右衛門の話は徳島藩邸内で女が浚《さら》われたということとは全く別な話で、こうして二人は、三田通りの越後屋まで引上げて来ました。
八
この頃、また上野の山下へ一軒の変った床屋が出来ました。
変ったといっても店の体裁《ていさい》や職人小僧の類《たぐい》、お客の扱いに別に変ったところはなく、「銀床《ぎんどこ》」という看板、鬢盥《びんだらい》、尻敷板《しりしきいた》、毛受《けうけ》、手水盥《ちょうずだらい》の類までべつだん世間並みの床屋と変ったことはない。ただ一つ変っているのは、この主人がてんぼう[#「てんぼう」に傍点]であったことだけであります。
どうしたわけかこの床の主人には右の片腕がありません。滅多には店へ出て来ないけれども、職人小僧の使いぶりは上手であるらしい。
この床屋の店先で、
「どうです、皆さん、大きな声では読めねえがこんなものが出ましたぜ」
「何でございます」
「まあ、読むからお聞きなさいまし」
「聞きやしょう」
懐ろから番附様のものを取り出して、お客の一人が、
「ようございますか、恐れながら売弘《うりひろ》めのため口上……」
「なるほど」
「此度《このたび》徳川の橋詰に店出《みせだし》仕り候|家餅《いへもち》と申すは、本家和歌山屋にて菊の千代と申弘《もうしひろ》め来り候も、此度相改め新製を加へ極《ごく》あめりかに仕立《したて》趣向|仕《つかまつ》り候処、これまで京都堺町にて売弘め候|牡丹餅《ぼたもち》も少し流行に後《おく》れ強慾に過ぎ候、三条通にて山の内餅をつき込み……」
「ははアなるほど、御養君の一件だね、誰がこしらえたかたいそうなものを拵《こしら》えたものだが、うっかりそんなものは読めねえ」
「ナニ、御威勢の盛んな時分ならこんなものを拵える奴もなかろう、拵えたって世間へ持って出せるものではねえが、何しろ今のような時勢だから、公方様《くぼうさま》の悪口でも何でもこうして版行《はんこう》になって出るんだ」
「それだってお前、滅多《めった》にそんな物を持って歩かねえがいいぜ、岡ッ引の耳にでも入ってみろ、ただでは済まされねえ」
「大丈夫だよ、何しろ公方様の御威勢はもう地に落ちたんだから、とてもおさまりはつかねえのだ、ああやって貧窮組が出来たり、浪人強盗が流行《はや》ったり、天誅《てんちゅう》が持ち上ったりしている世の中だ」
「悪い悪い、公方様の悪口なんぞを言っては悪いぞ」
「かまうものか、公方様も今時の公方様は、よっぽどエライ公方様が出なくちゃあ納まりがつかねえ、このお江戸の町の中で、お旗本よりもお国侍の方が鼻息が荒いんだから、もう公方様の天下も末だ」
「なんだと、この野郎」
「なんでもねえ、実地
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