ございます」
「そのわけにはなかなか入り組んだ仔細《しさい》があるのだが、人違いなのだ、人違いで捉まって、甲府の牢へ入れられている。運は悪く、悪いところへ通りかかったのが兵馬さんの因果、身の明りの立つまでは、ああして甲府の牢内に窮命《きゅうめい》しておいでなさらなくてはならねえ」
「どうしてそんな悪いところへ通りかかったのでございます」
「盗賊《どろぼう》だ、盗賊のかかり合いだ」
「盗賊! そんなことはありますまい、なんと間違って兵馬さんが盗賊なんぞと……そんな間違いのあるはずがございませんもの。伯父さん、早く心配して、兵馬さんの身の明りが立つようにして上げてください」
「それについて、俺も実に困ったのだ、とてもあたりまえのてだてで兵馬さんの明りを立てることはできないから、仕方がないからお前に相談に来たのよ」
「だって伯父さん、盗賊をしない者が盗賊の罪を被《き》るなんて、お役人だってわかりそうなもの、盗賊をするような人としない人とは一目見てわかりそうなもの、伯父さんが早く行って、兵馬さんはそんな人ではございませんと明りを立てておやりなされば、お役人が直ぐに御承知になりそうなものではございませんか」
「いや、役人も兵馬さんが盗賊するような人でないことはよく御存じなのだが、どうもちょうど、御金蔵へ盗賊が入った晩、兵馬さんがちゃんと身拵えをしていたのだから、どうしても、ほんものの盗賊が出て来るまでは、兵馬さんは赦《ゆる》されまいとこう思うのだ」
「そんなら早く、そのほんものの盗賊が捉まるように骨を折って上げてくださいまし」
「それはずいぶん骨を折るけれども、なにしろ悪いことをするような奴だから、どこにいて、いつ捉まるかわからねえ。それについてお松、お前に相談だが、俺がひとつ兵馬さんを牢内から盗み出して来るから、お前どこかへ兵馬さんを当分かくしてくれないか」
「ええ? 兵馬さんを御牢内から盗み出して来るって、伯父さんが?」
 お松は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「伯父さん、そんなことをしないで、お役人によく仔細《わけ》を話して、そうでなければほかにその道の人を頼んで、兵馬さんを助けるようにして上げてくださいまし、お上《かみ》の牢内から盗み出すなんて、そんな危ないことをしてはおたがいのためにならないではありませんか」
「それだ、なにしろ今の時勢はこんな時勢だから、真直ぐなことばかりは通らねえのだ、あたりまえのことをしていた日にはトテモ、急に兵馬さんを助け出すことはできねえのだ」
「困ったことでございますねえ、御牢内のおかかりよりも、もっと上のお役人を頼んでお願いをしてみたらどうでございましょう」
「そこに一つの当りがねえわけではねえのだ、実はあの方の係りが、お前の知っている神尾主膳様よ」
「神尾主膳様? あの伝馬町の、わたしの元の御主人様が……」
「いかにも。その神尾様がこちらを失敗《しくじ》ったものだから、甲府詰を仰付《おおせつ》かったのだ。お旗本で甲府詰になるのはよくよくで、もう二度と浮ぶ瀬がないようなものだ。それであの神尾様も甲府へ行って、自暴半分《やけはんぶん》になかなかよくないことをなさるそうだ」
「そんなら伯父さん、その神尾様が御牢内の方のお係りでありましたら、わたしがこれからあちらへ行ってお願い申してみましょう、兵馬さんは決してそんな悪いことをなさる人ではないということを、わたしから神尾の殿様によく申し上げて、お願い申してみましょう」
「それなんだ、お前も一旦の御主人であってみれば、お前から願ってみれば聞いて下さるかも知れぬ。と言って、あの殿様はなかなか性質《たち》のよくない殿様だ、お前がとりなしたために、かえってよけいな面倒が起りはしないかと、俺はそれを心配するよ」
「神尾の殿様だって、まるっきり物のおわかりにならないお方ではございませぬ、わたしが一生懸命になってお願いをしてみたら、きっとお聞入れ下さることと思います。もしそれでいけませんでしたら、伯父さんのおっしゃる通り、兵馬さんを盗み出すなりどうなりしたがようございましょう、そうなればわたしも覚悟をしますから、どんなにしても兵馬さんをお隠し申します」
「なるほど……しかし、お前も今は主人持ち、ここで甲府まで出かけるというわけにはゆくまいからな」
「行きますとも、甲府まででもどこまででも参りますとも、ほかのこととは違いますから、わたしはどんなにしても、こちらのお暇をいただいて甲府へ参ります」
「もし暇が出なかったらお前はどうする」
「お暇が出なければ……わたしはお邸を逃げ出してもよろしうございます」
「なるほど……」
 七兵衛が暫く考えていましたが、
「お前がそこまで了簡《りょうけん》をきめてくれたなら、俺はひとつお前を連れて甲府へ乗り込
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