よ」
六
七兵衛がここで姪と言うたのはお松のことであります。お松はこの時分、徳島藩の中屋敷へ奉公をしておりました。徳島藩の中屋敷は薩州の邸とは塀一つを隔てたところにあって、お松はそこに奉公してから日もまだ浅いけれども、目上にも朋輩《ほうばい》にも信用され可愛がられて、前に神尾の邸にいた時のような危ないことは更になし、まことに無事に暮しておりました。
この際お松は、今までにない一つの縁談をほのめかされました。この話は至極《しごく》実直に持ちかけられ、そうして自分の身を落着けるには、決してためにならないところではないし、自分もまた身を落着けてから、見込んで世話した人の鑑識《めがね》を裏切るようなことはないつもりだと、自信はしているけれども、お松はどうしてもそれを承諾する気にはなれませんでした。
断わるならば何と言って断わろうか知ら、それが一つの難題で、せっかくああ言ってくれる親切を無下《むげ》に断わってしまえば、おたがいに気まずくなって、また自分はこのお邸を出なければならないことになるかも知れぬ、そうなるとまた落着くところに迷うかも知れぬ。お松はその晩、散々《さんざん》にこのことを考えてしまいました。
無事に暮らしていたけれども、兵馬のことを考えないわけにはゆきません。兵馬のことは忘れたことはないのに、幾度もそれを考え直さねばならなくなりました。
深いようで浅い二人の縁、浅いようで深い二人の間、お松にはそれをどうしてよいのかわからない。兄妹のようにして永らく一緒にいたけれど、どうも物足りない。兵馬その人に不足はないけれど、自分よりは仇討の方をだいじがる兵馬が、お松にはどうしても物足りないのでした。
と言って兵馬さんは、わたしを可愛がらないのではない、わたしをいちばん可愛がっているし、わたしもまた兵馬さんがいちばん可愛ゆいけれども、それだけでは頼りがない。わたしがここでほかへお嫁に行ってしまっても、兵馬さんは口惜しいとも悲しいとも思いはしないで、かえって祝って下さるでしょう、それでは詰らない。お嫁に行ってしまったのを、喜んでくれるような可愛がり方ではそれでは詰らない、とお松はそれを物足りなく思いました。駿河《するが》の清水港で別れてから、船と共に江戸へ着いたお松。船頭が徳島藩の出入りでここへ世話をされて来てから、兵馬の便りは一度、甲府から
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