たがこい》いっぱいになった見物人の方をながめて、
「たいへん人が入っている」
 この時の前芸は駒廻しで、その次が足芸。
 紋附を着て袴を穿《は》いて襷《たすき》をかけた娘が三人出て来て、台の上へ仰向きに寝て足でいろいろの芸をやる。それから力持、相撲のように太った女、諸肌脱《もろはだぬ》ぎで和藤内《わとうない》のような風をしているその女の腹の上へ臼《うす》を載せて、その上で餅を搗《つ》いたり、その臼をまた手玉に取ったりする。
 道庵はそれを見ながら、与八を相手にあたりかまわず無茶を言っては、鮨《すし》と饅頭《まんじゅう》を山の如く取って与八に食わせ、自分も食いながら、
「今度は、例の印度人の槍使いだな」
 問題の印度人、書入《かきい》れの芸当。長い浮世に短い命、二度とふたたびは日本の土地で見られないと口上が言った。前にも後にも初めての舶来、看板でおどかし、呼込みで景気をつけ、次に中入り前に、ワザワザ時間を置いて勿体《もったい》をつけて、また改めて口上言いが出て、
「さて皆々様、これよりお待兼ねの印度人槍使いの芸当……」
 前のに尾鰭《おひれ》をつけて長々と、槍使い一代の履歴を述べ、さんざん能書《のうがき》を並べて見物に気を持たせておいて、口上が引込むと拍子木カチカチと、東口から現れたのがその印度人であります。
「なるほど、こりゃ黒ん坊だ、看板に偽《いつわ》りは無《ね》え」
 見物はその異様な風采《ふうさい》でまず大満足の意を表します。なるほど背四尺一寸と看板に書いてあった通り。手に持った槍、柄は真赤に塗ってあって、尖《さき》が菱《ひし》のようになっている、それも看板と間違いはない。身体《からだ》は漆《うるし》のように黒く、眼ばかり光って、唇が拵《こしら》えたように厚く、唇の色が塗ったように朱《あか》い、頭の毛は散切《ざんぎり》で縮《ちぢ》れている、腰の周囲《まわり》には更紗《さらさ》のような巾《きれ》を巻いている、首には例の国王殿下から賜わったという金銀のメタルが輪になって輝いている、それもこれもみんな看板と同じこと。それが東口から赤柄《あかえ》の菱槍《ひしやり》を突いて出て来る足許《あしもと》は、一歩は高く一歩は低いものであります。
「なるほど……あの足だな、あれがヒマラヤ山で虎に食われた足なんだ」
 その跛足《びっこ》がまた大喝采《だいかっさい》。
「イヨー、舶来の加藤清正!」
「虎狩りの名人! 日本一! 世界一!」
 見物は喚《わめ》く。
「先生」
「与八」
「看板の通りだね」
「看板の通りだよ」
 やがて真中の土俵まで出て来た印度人、光る眼をギョロつかせて四方を見る。どんな心持でいるのだか、色が黒いから面《かお》の上へは情がうつりません。
「キーキーキー」
 白い歯を剥《む》き出して、猿の啼《な》くような声を出して、左の手を高く挙げました。
「あれが向うの挨拶《あいさつ》なんだね、日本でこんにちはと言うのを、印度ではキーキーと言うんだろう」
「それに違えねえ」
 印度人は、キーキーと言いながら、右の手には槍を持ち、左の手は高く挙げたまま、グルリと見物を一週《ひとまわ》り見廻して正面を切ると、一心に見ていた道庵先生と期せずして面《かお》がピタリ合いました。
 道庵の面をしばらく見詰めていた印度人。他目《よそめ》には誰も何とも気がつかなかったが、印度人はブルブルと慄《ふる》えて、危なく槍を取落すところを、しっかりと持ち直して、わざとらしく横を向きました。
「はて、おかしいぞ」
 道庵先生もまたこの時首を捻《ひね》りましたが、
「何だね、先生」
「どうも、おかしい、あの印度人は見たことのあるような印度人だ」
「先生は印度人にも友達があるのかね」
「どうも、あの時より肉は少し落ちているが、骨組に変りはなし、跛足《びっこ》に申し分もなし、こいつはいよいよおかしい」
 道庵先生は、慈姑《くわい》頭を振り立てて印度人の恰好《かっこう》を横から見、縦から見ていましたが、
「あはははは」
 突然、大きな声で笑い出しました。
 時々変なことを言い出すお医者さんと思って、あたりの見物も気に留めなかったが、この時は笑い方があまり仰山《ぎょうさん》であったから、みんなが道庵の方を振向いて見ました。
「先生、何を笑ってるのだ」
 与八も驚かされました。
「あはははは」
 道庵はやはり大口をあいて笑います。
「何がおかしいだか」
 与八は受取れぬ面《かお》。
「まず前芸と致しまして槍投げの一曲、宙天《ちゅうてん》に投げたる槍を片手に受け留める……」
 口上言いが言う。
 印度人が槍を取り直して、ヒューと上へ投げる。
「うまいぞ! あははは」
 道庵先生が囃《はや》すと、印度人はブルブルと慄えて、落ちて来た槍を危ないところで受け留める。手足にワナワナと
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