え」
「困ったねえ」
「俺らはもう印度人は廃業だ、親方にうまく持ちかけられて、お前までがやってみろと言うものだからこんなに黒くなってしまったが、今日という今日は、とてもやりきれねえ」
「困ったねえ」
「印度人は俺らの性《しょう》に合わねえ」
「困ったねえ」
 この時、見物席の方で罵《ののし》り噪《さわ》ぐ声がここまで喧《けたた》ましく響いて来る。
「あれ、あんなにお客が騒いでいるじゃないか、お前が中途で引込んだからなのだろう、お客様はみんなお前を見たがって来るのだからね」
「俺らはここへ寝てしまう」
 この印度人の正体が米友《よねとも》であることは申すまでもないことで、米友は今、刺繍《ぬいとり》の衣裳などが掛けてある帳《とばり》の中へ入って寝込んでしまおうとすると、
「黒さん」
 楽屋へ来たのは洗い髪の中年増《ちゅうどしま》。色が白くて光沢《つや》がある。朱羅宇《しゅらう》の煙管《きせる》と煙草盆とをさげて、弁慶縞の大柄《おおがら》に男帯をグルグル巻きつけて、
「どうしたんだい」
 背後《うしろ》には屈強な若者が三人、控えています。
「親方、済まねえが……」
 米友はこの年増を親方という。そうして済まねえと言って一目《いちもく》置く。
「済まないといったってお前、あの通り、お客がわいてるじゃないか」
「ばれちゃったんだ、親方」
「ばれたって? 誰もそんなことを言やしないよ、あの通り騒いでいるのはみんな、お前を見たがって騒いでるのじゃないか、お前がイカサマだっていうことを、一人も言ってるものはないじゃないか」
「けれども親方、たった一人、知ってる奴があるんだから、何とかしておくんなさい」
「なんと言ったって駄目なんだよ、お前が出て挨拶しなけりゃ、お客は納《おさ》まらないんだよ」
「では親方、病気だと言って休ましておくんなさい、今日一日、休ましておくんなさい、今晩よく考えておきますから」
「困るよ、そんなことを言ったって。あれあの通り、大騒ぎが始まっているじゃないか。それではお前、ちょっと出て挨拶しておくれ、病気で芸ができませんからって、お前の面《かお》で挨拶をしなければお客様は納まらないんだよ」
「俺らは出るのはいやだ」
「いやだとお言いかえ」
 お君はそれと心配して、
「友さん、そんなことを言わずに出ておくれよう、出て、なんとか言っておくれよう」
「うむ」
「さあ、早く出て行っておくれよう」
「うむ」
 米友は、やっぱり進まないで、
「挨拶をしろったって、キーキーキーだけでは済むめえ、なんと言っていいか俺らにはわからねえ」
「なんとでもいいかげんに、印度の言葉らしいことを言っておくれ、そうすれば口上の方でいいかげんにごまかしてしまうから」
「どうも俺らあ、もう気恥しくってキーキーも言えなくなった」
「あれさ、早く出ないと、あれあの通り土瓶や茶碗が降ってるじゃないか」
「弱ったなあ」
「早く出ておくれ、ね」
「親方、それじゃあね、俺らは一寸《ちょっと》ばかり面《かお》を出してね、出鱈目《でたらめ》を言うから、口上の方でごまかしておくんなさい」
「いいよ、呑込んでいるよ」
「それから親方」
「何だね、早くおし、相談なら後でゆっくりしようではないか」
「俺らはここで挨拶したら、もう印度人は廃業《やめ》だよ、黒ん坊は御免を蒙《こうむ》るよ」
「そんなことは後でいいから早く」
「ねえ君ちゃん、イカサマをやって人の目を晦《くら》ますと、こんな思いをしなくっちゃあならねえ、もう印度人には懲々《こりごり》だ」
「そんなことを言わないで早く」
「初めはちょっと出るばかりでいいと言うもんだから、お茶番をするつもりで印度人になってみたら、いつか知らねえうちに大看板を上げてしまって、やれ虎を三十五匹殺したの、印度の王様から勲章を貰ったのと、いいかげんなことを書き立てて事を大きくしてしまやがったから、俺らの引込みがつかねえ、それでとうとうこんな目に会っちまった、ばかばかしい」
「そんな小言《こごと》をいま言ったって仕方がないよ、早く出ておくれ」
 親方の年増《としま》は、だますようにして米友をつれて行きました。

「先生、大へんな騒ぎになっちまったね」
 与八は道庵に向って言う。
「あはははは」
 道庵は笑っている。
「何とも言わずに、黒ん坊が引込んでしまったね」
「あはははは、俺を見たから引込んだのだ、俺の面《かお》に怖れをなして逃げ出したのだ。どうだ与八、おれの豪《えら》いことをいま知ったか、三十五頭の虎を退治した奴が、おれの面を見ただけで逃げてしまった」
「冗談ばかり言ってる」
「冗談じゃねえ、こうして見ろ、黒ん坊が出ないために見物がわき出した、これで黒が出て来ればよし、出なければ小屋がひっくり返る、いよいよ事がむずかしくなった場合には、おれが行
前へ 次へ
全29ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング