よ」
「ああ、そうか、俺らはさっきから、何のためにお前がそんな紙きれを頭へ結《ゆわ》いつけているのかわからなかった」
「こちらへおいでなさい。今いう通り、人に知れると面倒になるから誰にも知れないように、わたしがよいところへそっと隠しておいて上げたのだから」
 女は米友を土蔵の裏へ引っぱって行って、河岸の水際《みずぎわ》まで米友をつれて来た時に、
「その石を転《ころ》がしてごらんなさい」
「あ、これだ、これだ」
 石を転がすとその下にあったのは、まさに自分の持っていた財布。
「早く持っておかえりなさい、それがために御主人を失敗《しくじ》るようなことがあると、お前さんもまだお若い人だからためにならないから。そうして、これを御縁にまた遊びにおいでなさいよ」
「お前さんの家はどこで、名前はなんというんだ、改めてお礼に上らなくちゃならねえ」
「わたしの家? そんなことはどうでもようござんすよ、お礼なんぞはいけません――名前だけは言いましょう、お蝶というんですよ。ここへ来て、今時分、お蝶お蝶といえば、大概お目にかかれますわ」

         五

 落した金をお蝶という夜鷹《よたか》の女から受取った米友は、不思議な感じに打たれます。
 売女《ばいじょ》のうちでもいちばん卑《いや》しい夜鷹、二十文か三十文の金で、女のいちばん大切な操《みさお》を切売りする女、この女は十両の金が欲しくはないのだろうか、取っても隠しても罪にはならない十両の金は大事に預かって、返しても返さなくても知れるはずのない人へ返してやる、そうして掛替《かけが》えのない大事な操は二十文三十文の金に替えて惜気《おしげ》がないということが、とにもかくにも不思議です。
 不思議に思いながら長者町へ帰って来て、主人忠作の家へ来るには来たが、厭《いや》な厭な気持に打たれてしまいました。もう一足もこの家へ足を入れる気にはなりませんでした。なんらの理窟もなしにこの家が厭で厭でたまらなくなりました。
「金は持って来たぞ、そうら、たしかにお返し申すぞ!」
 米友は大音を揚げて財布ぐるみそっくり[#「そっくり」に傍点]と格子戸《こうしど》の中へ投げ込むや否や、物に逐《お》われるように一目散《いちもくさん》に逃げ出して来ました。跛足《びっこ》の足で逃げ出しました。
 またも忠作の家を追ん出てしまった米友は、どこをどうブラブラ歩いて来
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