早く出て行っておくれよう」
「うむ」
 米友は、やっぱり進まないで、
「挨拶をしろったって、キーキーキーだけでは済むめえ、なんと言っていいか俺らにはわからねえ」
「なんとでもいいかげんに、印度の言葉らしいことを言っておくれ、そうすれば口上の方でいいかげんにごまかしてしまうから」
「どうも俺らあ、もう気恥しくってキーキーも言えなくなった」
「あれさ、早く出ないと、あれあの通り土瓶や茶碗が降ってるじゃないか」
「弱ったなあ」
「早く出ておくれ、ね」
「親方、それじゃあね、俺らは一寸《ちょっと》ばかり面《かお》を出してね、出鱈目《でたらめ》を言うから、口上の方でごまかしておくんなさい」
「いいよ、呑込んでいるよ」
「それから親方」
「何だね、早くおし、相談なら後でゆっくりしようではないか」
「俺らはここで挨拶したら、もう印度人は廃業《やめ》だよ、黒ん坊は御免を蒙《こうむ》るよ」
「そんなことは後でいいから早く」
「ねえ君ちゃん、イカサマをやって人の目を晦《くら》ますと、こんな思いをしなくっちゃあならねえ、もう印度人には懲々《こりごり》だ」
「そんなことを言わないで早く」
「初めはちょっと出るばかりでいいと言うもんだから、お茶番をするつもりで印度人になってみたら、いつか知らねえうちに大看板を上げてしまって、やれ虎を三十五匹殺したの、印度の王様から勲章を貰ったのと、いいかげんなことを書き立てて事を大きくしてしまやがったから、俺らの引込みがつかねえ、それでとうとうこんな目に会っちまった、ばかばかしい」
「そんな小言《こごと》をいま言ったって仕方がないよ、早く出ておくれ」
 親方の年増《としま》は、だますようにして米友をつれて行きました。

「先生、大へんな騒ぎになっちまったね」
 与八は道庵に向って言う。
「あはははは」
 道庵は笑っている。
「何とも言わずに、黒ん坊が引込んでしまったね」
「あはははは、俺を見たから引込んだのだ、俺の面《かお》に怖れをなして逃げ出したのだ。どうだ与八、おれの豪《えら》いことをいま知ったか、三十五頭の虎を退治した奴が、おれの面を見ただけで逃げてしまった」
「冗談ばかり言ってる」
「冗談じゃねえ、こうして見ろ、黒ん坊が出ないために見物がわき出した、これで黒が出て来ればよし、出なければ小屋がひっくり返る、いよいよ事がむずかしくなった場合には、おれが行
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