《ぴょう》を取り出して、
「先生、お一つ、いかがでございます」
駕籠の中の竜之助に持って行って、次に、
「若い衆さん、お前も一つどうだね」
「へえ有難うございます」
この駕籠舁《かごかき》は海道筋《かいどうすじ》の雲助と違って、質朴《しつぼく》なこの辺の百姓。
「御新造様《ごしんさま》、一ついかがでございます」
「駕籠を出ていただきましょう」
がんりき[#「がんりき」に傍点]が、また猪口《ちょく》を出す手先をお絹は見咎《みとが》めて、
「百蔵さん、お前の手はそりゃ……」
「ええ?」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は驚いて手を引込ませ、
「ナニ、いたずらでございます」
と言って、左右の駕籠舁の方に気を兼ねるらしい心持。けれども質朴な駕籠舁は、この時に眼を見合せました。
「こりゃ甲州無宿の入墨者《いれずみもの》だ、この入墨者を峠から一足でも甲州分へ入れた日にゃあ、こっちの首が危ねえ」
こう言って駕籠舁どもが、一度に立ち上って噪《さわ》ぎ出しました。
「抜いた抜いた!」
噪ぎ出した駕籠舁が急に仰天して逃げ出します。見れば駕籠から出た机竜之助が刀を抜いて立っていました。
「先生、何をなさいます」
竜之助は物を言わず、逃げて行く駕籠屋は追おうともせずに、がんりき[#「がんりき」に傍点]の声のする方へ向って来ますから、
「あ、危のうございます」
がんりき[#「がんりき」に傍点]も驚く、お絹も驚く。驚いて逃げるがんりき[#「がんりき」に傍点]の方へ寄って行く竜之助、ふらふらとして足許《あしもと》が定まりません。
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、竜之助の刀を避けて、楢《なら》の木の蔭へ隠れる。白刃《しらは》を閃《ひら》めかした竜之助は、蹌踉《そうろう》として、がんりき[#「がんりき」に傍点]の隠れた楢の木の方へと歩み寄る。
「先生、御冗談じゃありません、わっしをどうしようと言うんでございます」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は木の蔭から叫ぶ。その声をたよりに刀を振りかぶった竜之助。
「先生、眼が見えるんでございますか、わっしをお斬りなさるんですか」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、刀を振りかぶった竜之助の形相《ぎょうそう》を見てまた驚く。静かに歩み寄る足取りが盲目の人とは思われない。閉じた眼が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》に向いて輝くような心持がしますから、
「あ、危ねえ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、楢の木の蔭に居堪《いたたま》らないで、身軽に飛んで、高さ一丈余りある国境《くにざかい》の道標の後ろへ避ける。
「是《これ》より甲斐国《かいのくに》巨摩郡《こまごおり》……
是より駿河国《するがのくに》庵原郡《いおはらごおり》……」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の飛んだ方へ竜之助が向き直る、そうして徐々《そろそろ》と歩み寄る。
「あ、冗談じゃねえ、先生、眼が見えるんだね」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、この時、本当にまだ竜之助の眼が見えると思ったくらいですから、この道標の蔭からいずれへ逃げてよいかわからない。甲斐国巨摩郡と書いた方へ出れば右を斬られる、駿河国庵原郡と書いた方へ出れば左を斬られる、こうしていれば道標もろとも前から梨子割《なしわ》り。後ろを見せれば背を割られる。進退|窮《きわ》まって道標の蔭から竜之助の隙《すき》をうかがう。
そこへ歩み寄って来た竜之助。がんりき[#「がんりき」に傍点]はたまらなくなって、
「おい、御新造様《ごしんさま》、先生は気が違ったぜ、なんの咎《とが》もねえわっしをお斬りなさろうと言うんだ、あ……危ねえ」
この時、水を割るようにスーッと打ち下ろした竜之助の刀。絶体絶命で脇差へ手をかけながら左へ飛び抜けたがんりき[#「がんりき」に傍点]の右の手を、二の腕の半ばからスポリ、血が道標へ颯《さっ》と紅葉《もみじ》。
「あ痛えッ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、斬り落された切口を左の手で着物の上から押えて横っ飛び。
「狂人《きちがい》に刃物とはこれだ、手が利いているだけに危なくって寄りつけねえ、御新造様、早く逃げましょう、ぐずぐずしているとお前様も殺《や》られちまいますぜ」
尋常ならば眼を廻すべきところ、腕一本落して命を拾い出そうとするがんりき[#「がんりき」に傍点]は、
「早くお逃げなさいと言うに」
「どうしたんでしょう、まあ」
お絹は、さすがに狼狽《ろうばい》して途方に暮れているのを、
「どうもこうもありゃしねえ、早くわっしの逃げる方へお逃げなさい」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は峠道を飛び下りる。お絹はそれと同じ方へ飛び下りる。駕籠屋は、ただ白刃の光を見ただけで疾《と》うに逃げてしまいました。駕籠屋の逃げたのは駿河の国
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