あなた様の御酔興《ごすいきょう》で、こんな深山の奥へおいでなさるのですから」
「でも、お前さんが、山道は景色が好いの、身延《みのぶ》へ御参詣をなさいのと、口前《くちまえ》をよく勧《すす》めるものだから」
「はは、その口前の好いのはどちらでございますか、この道は険《けわ》しいから、あなた様だけは本道をお帰りなさいと先生もあれほどおっしゃるのに、山道は大好きだとか、身延山へぜひ御参詣をしたいとかおっしゃって、わざわざこんなところへおいでなさる。いや、これでなけりゃあ、竹の柱に茅《かや》の屋根という意気にはなれませんな」
「そんなつもりでもないけれど、わたしも実は本道が怖《こわ》いからね。七兵衛のような気味の悪い男に跟《つ》けられたり、人を見ては敵呼《かたきよば》わりをするような若い人に捉まったりしては災難だから、それでわざわざ廻り道をする気になりました」
「いや、どっちへ廻っても怖いものはおりますぜ、この道を通って身延へ出るまでには、きっと何か別に怖い物が出て参りますよ」
「おどかしちゃあいけませんね、何が怖いものだろう」
「ははは、別に怖いものもおりませんが、山猿が少しはいるようでございます、それから、どうかすると熊が出て参ります」
「怖いねえ」
「先生が附いているから大丈夫でございますよ」
 竜之助は前の駕籠で、二人の話を耳に入れている。がんりき[#「がんりき」に傍点]もなれなれしいが、お絹もなれなれしい。二人ともになれなれしい口の利《き》き様《よう》であります。
 お絹という女、誰にでもなれなれしい口の利き方をする。旗本のお部屋様として納まっていられない女。気象《きしょう》によっては、こんな男と言葉を交すのでさえも見識《けんしき》にさわるように思うのであるに、この女は、それと冗談口《じょうだんぐち》をさえ利き合って平気でいます。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が昨夜の言い分、お絹はそれを知らないから、平気で話をしているが、たとえ冗談にもせよ、そういうことを聞いている竜之助にとっては、二人のなれなれしい話し声を不愉快の心なしに聞いているわけにはゆくまいと思われます。

「ここが峠の頂上でございます」
 ようように山駕籠が徳間峠の上へ着きました。
「さあ若い衆さん、休んでくれ」
 徳間峠の上で二つの駕籠が休む。がんりき[#「がんりき」に傍点]は腰に下げていた一|瓢
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