ある。
「案《あん》の定《じょう》、悪い奴。悪い奴なればこそ、こうして腕を切られても逃げ了《おお》せたと見えますなあ」
「それはそうとあなた様、お不自由なお身で、おつれもござんせぬにここへおいでなさいましたかいな」
「つれはあったけれど、やはりその騒ぎで逃げてしまった」
「そうして、ここはお関所のない山路、どうしてこんなところへ」
「これから行けば身延へ出られるとやら。身延へ参詣して甲州街道へ案内すると言うてつれて来られたが」
「左様でござんすかいな、なんにしてもこの雨の降るところでは……皆さん、どうして上げましょうぞいな、このお方様」
「幸い、乗り捨てなさんしたあのお駕籠、あれへお乗りなすったら、わたしたちが交《かわ》る交る舁《かつ》いでお上げ申して、ともかくも人家のあるところまで……」
三
東海道筋から甲州入りの順路は、岩淵《いわぶち》から富士川に沿うて上ることであります。甲州へ入ると、富士川をさしはさんで二つの関があります。向って右の方なのが十島《とおじま》、左が万沢《まんざわ》で、多くは万沢の方の関を通ります。宇津木兵馬もまた同じく万沢の関へ通りかかりました。兵馬は要路の人から証明を貰っているから、いつ、どこの路をも滞《とどこお》りなく通過することができるので、七兵衛は兵馬と一緒に歩く時のみはその従者として通行するが、一人で歩く時は、到るところのお関所を超越してしまいます。
「あいつはたしかに甲州者なんでございます」
兵馬に向って七兵衛が言う。
「どうしてそれがわかります」
「言葉にも少し甲州|訛《なま》りがありますのと、それからあいつの手に入墨があるのでございます、そいつが甲州入墨と、ちゃんと睨《にら》んでおきましたよ」
「甲州入墨というのは?」
「手首と臂《ひじ》の間に二筋、あれこそ甲府の牢を追放《おいはな》しにされる時に、やられたものに違いございません」
「甲府を追放されたものが甲州へ入るとは、ちと受取りがたい」
「なに、あいつらはそんなことに怖《おど》っかする人間ではございません。なんでもこの辺の間道《ぬけみち》を通って、甲州入りをしたものに違いございませんが、あいつが盲目《めくら》と足弱をつれて、どういう道行《みちゆき》をするかが見物《みもの》でございます。これから川岸を西行越《さいぎょうご》え、増野《ますの》、切久保《き
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