だ、そうして、自分に足で戦いを挑《いど》むような仕打ちがいよいよ癪だ。
しかし、いよいよ峠を下り切るまでこの男は、七兵衛より後にもならず先にもならず、ほとんど相並んで歩いて来たが、ほら[#「ほら」に傍点]村へ出ると身延道《みのぶみち》。
「旦那、私はここで失礼を致しますよ、はい、身延へ参詣に参りますもので」
七兵衛に挨拶して法華題目堂《ほっけだいもくどう》から右、身延道へ切れてしまいました。
七兵衛は、興津《おきつ》の題目堂で変な男と別れてから、東海道を少し南へ廻って、清水港《しみずみなと》へ立寄り、そこで小半時《こはんとき》も暇をつぶしたが、今度は久能山道《くのうざんみち》を駿府《すんぷ》へ出て、駿府から一里半、鞠子《まりこ》の宿《しゅく》もさっさ[#「さっさ」に傍点]と素通《すどお》りをして上へ上へとのぼって行くのでしたが、ちょうど、鞠子の宿の池田屋源八という休み茶屋の前を通りかかると、
「もしもし、それへおいでなさる旅の旦那へ」
茶屋の中から言葉をかけたものがあります。
「エエ、お呼びなさいましたのは?」
七兵衛ふりかえると、店先でとろろ汁を食べているのは、薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠《さったとうげ》で競争をしかけた、銀ごしらえの変な男。
「これはこれは」
さすがの七兵衛も、少し面喰《めんくら》って立ち止まると、
「まあ、おかけなさい、ここは名物のとろろ汁、一つ召し上っておいでなさいまし」
「お前さんは身延へ行くとお言いなすったが……」
「ええ、身延へお参詣をすましてその帰り路なんでございます」
「冗談《じょうだん》じゃねえ」
「へへ、それは冗談でございます、身延へ行くつもりでしたけれども、途中でまた気が変ったものでございますから」
「そうだろう、それでは俺《わし》もひとつ、とろろ汁をいただきましょう」
身延へ切れたのは嘘《うそ》、やっぱりこの変な男も上《かみ》へのぼって行くものでありました。それにしても早い、自分がちょっと清水港で用を足している間に、本街道を早くもかけ抜いて、ここでとろろ汁を食っているのだから、七兵衛もなんだか一杯食わされたような気持がするのでありました。
「これから名代《なだい》の宇都谷峠《うつのやとうげ》へかかるのでございますから、草鞋《わらじ》でも穿《は》き換えようじゃあございませんか」
「そうしま
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