のことになる。この豆腐六のうどん[#「うどん」に傍点]屋でうどん[#「うどん」に傍点]を食べていたまだ前髪立ちの旅の若い侍――と廻りくどく言うよりは、宇津木兵馬といった方が前からの読者にはわかりがよいのであります。
 宇津木兵馬は、紀州の竜神村で、兄の仇《かたき》机竜之助の姿を見失ってから、今日はここへ来ているが、七兵衛やお松の姿はここには見えませんでした。兵馬は一人でここへ来て、一人でこれから内宮へ参詣をしようという途中にあるのでありました。
 豆腐六のうどん[#「うどん」に傍点]は雪のように白くて玉のように太い、それに墨のように黒い醤油を十滴ほどかけて食う。
「このうどん[#「うどん」に傍点]を生きているうちに食わなければ、死んで閻魔《えんま》に叱られる」――土地の人にはこう言い囃《はや》されている名物。兵馬はそれと知らずにこのうどん[#「うどん」に傍点]を食べていると、表が騒々《そうぞう》しい。
「何事だ、何事だ」
 店にいたものはみんな表を見る。通りかかった人が逆に逃げる。牛馬が驚いて嘶《いなな》く、犬が吠えて走る、鶏が飛んで屋根へ上るという騒ぎであります。
「狂犬《やまいぬ》が出た!」
 ワァーッと叫びます。怖いもの見たさの店にいた連中は飛び出して見ると、ワッワッと逃げ惑う人畜の向うから、疾風《はやて》の如く飛び狂って来る大きな犬があるのであります。
「ムクだムクだ、間の山のお玉のムク犬だ」
 村方《むらかた》の方から驀然《まっしぐら》にこの古市の町へ走り込んだムクのあとを追いかけて来るのが何十人という人、得物《えもの》を持ち、石や瓦を抱えている。前には役人連、そのあとから番太《ばんた》、破落戸《ごろつき》、弥次馬の類《たぐい》が続く。
「それ狂犬だア、逃げろ!」
 追いかけたのとは反対の側から、また数十人、同じく役人、岡引《おかっぴき》、番太、破落戸、弥次馬の一連。
「そうれ、逃がすな」
 ムクは古市の町の左側の大榎《おおえのき》のところまで来た時分に、前後から挟み打ちにされてしまいました。
 大榎を後ろにしてムクの眼は蛍のように光る。血を浴びた首筋の毛が逆さに立って獅子の鬣《たてがみ》を見るようでありました。
 前足を組み違えて、尾をキリキリと捲き上げて、火を吹くような声で、ウォーウォーと唸《うな》って、もはやドチラへも切れることのできない囲みの中に立ち迷うていました。
「狂犬《やまいぬ》を打ち殺せ」
 石や瓦や棒片《ぼうぎれ》が、立ち迷うているムクをめがけて雨のように降る。
 ムク犬は決して狂犬《やまいぬ》になったわけではない。主人の危急を救わんとして狂犬にさせられてしまったのでありました。かわいそうに、ムク犬もこうしていれば、けっきょく狂犬としてここで殺されるよりほかはないのでありましょう。
 時に天の一方から、
「どいた! どいた! どきあがれ」
 鉄砲玉のように飛びこんで来た一人の小男、諸肌脱《もろはだぬ》ぎで竹の竿に五色の網。
「やいやい、ムクは狂犬じゃねえんだ、汝《てめえ》たちが狂犬にしちまったんだ、ムクを殺しやがると承知しねえぞ」
 それは米友でありました。四尺の身体に隆々と瘤《こぶ》が出来て、金剛力士を小さくした形。
「イヨー米友!」
 妙な役者が飛び出したと、屋根の上で見物していた弥次馬が一斉に囃《はや》し出すと、米友は網竿を水車のように廻して、
「ムクは温和《おとな》しい犬なんだ、今まで人を吠えたことも、食いついたこともねえ犬なんだ、それを汝《てめえ》たちが寄ってたかって狂犬にしてしまいやがる、ざまを見やがれ、その温和しいムクが怒るとこんなものなんだ、一疋の畜生に何百てえ人間が、吠面《ほえづら》あ掻《か》いて逃げ損《そこ》なっていやあがる、このうえ米友様の御機嫌を損ねたらどうするつもりだ、さあ通せ、道を開いて通せ、ムク様と米友様のお通りだから道を開いて素直《すなお》に通せやい」
「イヨー米友、大出来」
「通さなけりゃ、こっちにも了簡《りょうけん》がある、やい、早くそこの道を開きやがれ」
 米友は勇気|凛々《りんりん》として、竿を打振って行手の群衆に道を開けと命令する。
「あいつは、あの通り小兵だけれども、肉のブリブリと締まっていることを見ろ、あれで力のあることが大したものなんだ、身体のこなしの敏捷《すばしっこ》いことと言ったら木鼠《きねずみ》のようなもので、槍を遣《つか》わせては日本一だ」
 米友の手並は事実と誇張とで評判になって、恐怖の騒動の巷《ちまた》はここで一種の興味ある大人気を加えてしまいました。
 その時、誰が投げたかヒューと風を切って飛んで来た拳大《こぶしだい》の石。
「何をしやがる」
 竿の網を袋にならぬように強く張った五色の糸。それでムクの鼻面《はなづら》に飛んで来た石をパッと
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