兵衛さん、御苦労御苦労、もうここでよろしい」
 それは仙公を連れて、船大工の与兵衛に送られた長者町の道庵先生でしたから、兵馬も驚いたが、お松の方がいっそう意外な感じがして、直ぐに呼びかけようとしていますと、道庵先生はお松の方には気がつかず、与兵衛に向って、
「もうここでよろしいから帰ってくれ給え。うむ、もうどちらも大丈夫、心配することはない。野郎の方は少々|跛足《びっこ》になるかも知れないが、身体のところは間違いっこなし、薬は飲まなくっても放《ほ》っておけば自然に癒《なお》る」
「へえ、どうも有難うございます、ほんとにどうも、全く先生のおかげさまで」
 与兵衛は道庵の前へしきりに頭を下げる。
「それから、あの眼の方なあ、あの眼は野郎から見ると難物だからな。しかしまあ、ああしておけば十日や二十日は持つ、そのうち江戸へ出て来るというから、来たら拙者《わし》がところへよこしなさい」
「へえ、何から何まで有難うございます」
 与兵衛は繰返してお礼を言います。
 ここで道庵先生が、野郎の方は少々|跛足《びっこ》になると言ったのはもちろん米友のことで、眼の方は難物だというのはたぶん机竜之助のことでありましょう。
 さきの晩、与兵衛が伝馬で若山丸へ頼みに行ったのはお玉一人であって、竜之助は、やはり与兵衛の家に隠されているものと見なければなりません。
 道庵も江戸へ帰るものと見えて、すっかり旅装束《たびしょうぞく》になっていました。その時にお松が、
「先生、道庵先生」
「おやおや」
「いつぞや、先生のお世話になりました江戸の本郷の……」
「ああ、そうであったか、それはそれは。やはりお前さんもお伊勢参りかな」
「いいえ……」
「道庵先生」
 今度は兵馬が呼びかける。
 あちらからも道庵、こちらからも道庵で、先生めんくらってしまい、
「おそろしく道庵の売れのいい日だ。お前さんはどなたでしたかね」
「浪士に追われて、先生のお宅へ走り込んだことがありました、その節はえらいお世話になりました」
「そんなこともあったけかな……お前さんもなにかね、伊勢参りかね」
「いいえ違います、拙者は別に用向があって上方《かみがた》から――して先生はこれからどちらへ」
「拙老《わし》は伊勢参りの帰りじゃ、この与兵衛さんという人の家にお世話になってな、せっかくの好意だから、舟で桑名まで送って貰って、それから宮へ行こうというのだ、お前さんも江戸へお帰りなら、一緒に舟で行こうではないか」
「私共は、あの大船に乗るようにきまっておりますから」
「左様でござるか。それでは舟の出るまで、ドレ一ぷく」

 道庵先生の一行は、与兵衛の仕立ててくれた舟で桑名から宮へ向う。
 兵馬とお松とお玉とを乗せた若山丸は、十六反の帆を揚げて大湊の浜を船出する。
 米友の身体《からだ》も道庵先生の力によって旧に復するし、机竜之助もまた計らずも道庵先生の力によって幾分か視力を回復したらしい。七兵衛はムク犬と一緒にどこへか駈けて行ってしまった。やくざ旗本を先へ帰して、ひとり残ったお絹も、そういつまで遊んでいられるものでないから帰りの仕度をする。これらの連中の心々はそれぞれ違うけれども、そのめざして行くところは、みんな東の空であります。



底本:「大菩薩峠2」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
   1996(平成8)年2月15日第4刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年5月31日公開
2004年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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