思われ、お玉が行くと言えば、ムク犬が跟いて行くもののように、土地の人には覚えられております。
「お玉可愛や、ムク犬憎や」
 誰やらが言い出したのを、子供が覚えて、
「お玉可愛や、ムク犬憎や」
と言って、ムク犬を見かけると、最初は棒を出したり石を投げかけたりしたものでしたが、
「そんな悪戯《いたずら》をするものではありませんよ、怒ると食いつきますよ」
と言って、お玉がいつもムク犬の前に立ち塞《ふさ》がるものだから、子供はベソをかいて引上げる。
 そうかと言って、ムク犬がひとりでいる時には、子供はかえってそれに近寄ることを致しません。
 ムク犬はこの界隈《かいわい》のあらゆる犬より強いのです。ムク犬は容易に怒らず、容易に吠えないけれど、時あって怒って吠える時には、六尺の男が戦慄《せんりつ》し、街道を通る牛馬でさえ、立ちすくんでしまうことがあるくらいですから、子供らの歯には合いません、ムク犬もまた子供を嚇《おどか》すようなことは嘗《かつ》てしたことがないのです。
 お玉はよく間の山節をうたい、ムク犬はよくお玉を守る。
 この二つの主従は、いまや古市の大楼、備前屋の前へ来て立ちどまりました。

         四

 古市の大楼には柏屋《かしわや》、油屋、備前屋、杉本屋などいうのがあります。これらの四軒には、いずれも名物の伊勢音頭《いせおんど》というものがあります。
 源氏車《げんじぐるま》に散らし桜を染め抜いた備前屋の暖簾《のれん》の前に、お玉とムク犬とが尋ねて来た前から、この家では伊勢音頭が始まっておりました。
 今宵《こよい》、その折の音頭のお客というのは、五人連れの若い侍たちでありました。
「これは勤番《きんばん》のお侍でもなく、御三家あたりの御家中でもなく……左様、やはり、お江戸の旗本衆のお若いところ」
 備前屋の主人は、この五人連れの若い侍たちを見て、こんなふうに目利《めきき》をしてしまいました。
 その頃、どこの色里へ行っても、やはり江戸の者がいちばん通りが良かったそうであります。諸大名の家中《かちゅう》にも、上品に遊ぶ者や活溌に遊ぶものもずいぶん無いではありませんでしたが、どうしても江戸の旗本あたりのように綺麗にゆかなかったそうであります。それで京都あたりでも、ほんとにあの社会で好かれたものは薩長でもなく、土佐や肥前でもなく、やはり江戸の侍であったというこ
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