いますとも」
この時に、竹藪の中を見込んでいたムク犬は、急に起き上ると驀然《まっしぐら》に藪の中をめがけて飛び込んでしまいました。
「どうしたんでしょう、ムクが落着かないこと」
お玉もまた竹藪の中を見込んで思案顔。
「狐が出たのでしょうよ」
「そうかも知れません」
ムクはしばしば狐を取り、狼を追いかけることがありました。ムクが出動をする場合は、大抵この二つの場合でありましたが、その狐も今は絶えてしまったようだし、狼もムクを怖れて、幾年にもその影を見せませんから、この村には、今ムクを起すべき非常のことが一つもなかったのです。無論、それと知ってこの村あたりを犯す盗人の類《たぐい》がある由もありません。
「狼が来るはずはありませんね」
金ちゃんの母親も、ムクの走り込んだ竹藪を見込んで不審顔《ふしんがお》をしています。
「ムクや、ムクや」
お玉は縁側へ立ち上ってムクを呼びますと、しばらくして物を唸《うな》りつけるムクの声、竹藪の中がガサガサすると見れば、そこから飛んで出たムクは、今度は一散《いっさん》に木戸の方へと走りました。
その木戸口から今、一人の人が入って来る、よくこの辺に見える薬の行商|体《てい》の人でありまして、その男が木戸口からお玉のいる方へ進んで来ますと、いま竹藪から走り出したムクはその人に向って、噛みつかんばかりに猛然として迫って行きます。
行商体の男は、タジタジとしましたけれども、犬をなだめるようにして、お玉のいる方へ近寄って来ようとします。それをムクは近寄らせまいと肉薄しているようにも見えます。さすがにまだ噛みつきも、食いつきもしませんけれど、ムクの気勢を見れば、絶えて久しく現われなかった狼を追う時の眼の色が現われておりますから、
「ムク、人様を吠えてはいけませんよ」
お玉はこっちで犬を制したけれども、ムクは決して柔順になりませんでした。その男が一歩進めば一歩進むほど、ムクの気勢が荒くなるのでありました。
いかなる人が、どんな異様な風采《ふうさい》をして来ようとも、ムクは眠れるものの如くして、嘗《かつ》てそれに吠えついたことはないのに、今は全くそれと違いますから、
「この犬は気が違ったのではないかしら」
お玉も来る人に気の毒でたまらない。洪水《こうずい》の中をやっと泳ぐようにして行商体の男は、ムク犬の鋭い威勢を避けながら、お玉のいると
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