《ちゅうにかい》で……」
 仲居の一人が第二の大変をその場へ知らせて来たのであります。
「大変とは?」
「あの離れの中二階で、お登和《とわ》さんが……こうして」
「どうして?」
 仲居の女はこうしてと言って、血相が変って口が利《き》けないのを手で補って、咽喉《のど》を掻き切る真似《まね》をしたのですから、備前屋の主人は仰天《ぎょうてん》しました。
「お登和が咽喉を突いたと!」
 盗賊は大きくとも物品に関することであるが、ここに報告されて来た第二の大変は人命に関することでありました。
「みんな早く……」
 主人は先へ立って飛んで離れの中二階へ来て見ると、屏風《びょうぶ》もなにも立て廻してはなく、八畳の間いっぱいに血汐《ちしお》。蘇枋染《すおうぞめ》を絞《しぼ》って叩きつけたようなその真中に突伏《つっぷ》した年増の遊女――それは昨晩、間の山節をここで聞いた女、また手紙と金とをお玉にそっ[#「そっ」に傍点]と渡して頼んだ女、ここではお登和と呼ばれている女――
「ああ、やったな、危ないとは思ったが、とうとうやったな。早く脈を見てみるがいい、気味の悪いことがあるものか、血だ、血だ、血で辷《すべ》ってはいけない、刃物を取ってしまえ、刃物に触《さわ》ると怪我をする」
「あっ!」
 主人が指図《さしず》して雇人が抱き起して見ると凄い、咽喉笛《のどぶえ》を掻き切ったのは堺出来《さかいでき》のよく切れる剃刀《かみそり》で、それを痩《や》せこけた右の手先でしっかり[#「しっかり」に傍点]握って、左の手を持ち添えて、力任せに掻き切って抉《えぐ》ったもので、そこから身体中の血という血はみんな出てしまって、皮膚の色は蝋のように真白くなっているところへ、その血が柘榴《ざくろ》を噛んで噛み散らしたように滲《にじ》んでいます。
「飛んでもないことをしてしまった」
「遺書《かきおき》のこと……豊」
 それが行燈《あんどん》の下に置いてあります。お豊――読者のうちにはこの名を覚えている人があるでありましょう、それは同じ伊勢の国で亀山の生れ、家は相当の家でありますけれども、真三郎という恋人と思い思われてついに近江の琵琶湖に身を沈めてしまった女であります。幸か不幸か、男の真三郎は冥土《めいど》へ行ったのにお豊だけはこの世に生き残って、大和の国|三輪《みわ》の里の親戚へ預けられている間に、京都を漂浪して来た机
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