れ、その夕べあしたの鐘の声というのよ、それがほんものの間の山節ということじゃ。今は廃《すた》れたという話だから、せっかく来ても聞けるか聞けないかと、心配をしながら来てみたのじゃ。なるほど伊勢音頭も花やかでよい、花やかで面白いけれども、それ数奇者《すきもの》には得て癖がありがち、家に容貌《きりょう》なら品行《ひんこう》なら申し分のない女房を持ちながら、かえってその女房より容貌も位も十段も劣った女に溺《おぼ》れて、迷い込む者もあるものよ」
「左様におっしゃれば、そのようなものでござりましょう、殿様方もさだめて左様なお物好きでいらせられればこそ、お江戸の美しい花にもお見飽きあそばして、古市くんだりまでこうしてお調戯《からかい》にお下りあそばしまする、鯛《たい》も売れれば目刺《めざし》も売れる、それで世の中は持ったものでございますね、よくしたものでございますよ。なんに致しませ、間の山節とやらも一度お聞きあそばしますも旅のお話の種でござりましょう。もう参りそうなもの」
この仲居、なかなか口が達者です。この時、程近いどこかの大楼でまた賑かな伊勢音頭の拍子《ひょうし》、
「ヨイヨイヨイヤサ」
五
「今晩は、間の山の玉でございます、有難うございます」
ムク犬を連れたお玉は、ちょうどこのとき備前屋の前に立って、片手で源氏車の暖簾《のれん》を分けて、楼の中へ首をさし入れたのでありました。
「あ、お玉さんかえ、お客様がお待ち兼ねですよ」
奥へ沙汰をすると、例の万の[#「万の」に傍点]に似た仲居が出て来て、
「さあ、お玉さん、裏口へお廻りよ、いつもの通りあの石燈籠の蔭からね。中から木戸をあけて上げますよ」
「ハイ、有難うございます」
万の[#「万の」に傍点]は差図《さしず》をするような言いぶりでありました。お玉は差図をされた通りに通り抜けて石燈籠の蔭から中庭の方へ参りますと、中からまた一人の仲居が木戸をあけてくれる。導かれて、入って行って見ると、前の五人づれの若侍の大一座。
「間の山のお玉が参りました」
仲居の万の[#「万の」に傍点]が跪《かしこ》まると、一座の眼は庭先から導かれて来るお玉の方へと一度に向いてしまいます。
「今晩は、間の山の玉でございます、有難うございます」
縁側の前で、お玉は正客の若侍の方と、取巻きの連中の方へと御挨拶を申し上げます。
「
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